エヴァとヤンキー、あるいはキレる→壊れる

http://d.hatena.ne.jp/matuoka/20060612#1150162355

http://d.hatena.ne.jp/matuoka/20060608#c


エヴァとヤンキーマンガの関係、というのはものすごく面白い視点。
妙な言い方だけど、パチンコでエヴァンゲリオンが存在することすらも、これで説明できるかもしれないと思う。
ヤンキーマンガの「壊れたキャラクター」の説明のときにエヴァの影響を考えること、うーむ、私にはそういう視点が欠けてるのかなと少し反省してしまいました。


以下は、私が考えた点。
ものごとを一般化してついつまんなくしてしまうクセのある私としては、
「もしもエヴァが無くても、『壊れたキャラ』は登場しただろう」ということはひとつ、仮説として思う。

もうホントにね、こんなテキスト書くヒマがあったら読み返せよ自分、と思いつつまだ検証してないんですが、田中宏の「BADBOYS」では「エヴァ」が放送される95年以前から、確か「壊れたキャラ」って出ていたと思うんですね。

じゃあその源泉は何かというのを作品から思いつくのは、まず1990年の映画「羊たちの沈黙」ですね。
何も「刑務所に幽閉されたインテリのサイコパス」が出なければその影響がないとは言えない(「バキ」の死刑囚編なんかはレクター博士の『知識』とか『知恵』を、そのまま超人的な肉体に置き換えたという点で、わりと面白い本歌取りだとは思いますが、それはまた別の話)。
この作品によって「サイコパス」を描くことが流行った(というか「アリ」になった)というのがまず、ある。


田中宏個人が、なぜ、いつ頃「壊れたキャラ」と、「壊れているがゆえにそいつが起こす騒動に賭けてサポートする子分的なやつ」を配するということを始めたのかも、現時点での私の知識ではよくわからないんですよ。


ただコレだけは言えるのはですね、ヤンキーマンガの場合、ヤンキーのルールを守るやつは手強いけど倒せない相手じゃないわけですよ。
彼らにとっていちばん恐いのは、「ヤンキーのルールをまったく守らない/あるいは原理主義的に守ろうとする」ヤツなんですね。
それは、現実世界ではヤクザだったり、もっと大きな社会的存在だったりするんだろうけど、
「ヤンキーマンガ」というワクに治めるには、「壊れたヤツ」というのはわりと使いやすいという気がしていますね。


それと、「トラウマ」が関係してくる「壊れたヤツ」ということでしたら、これもだれが始めたかわからない……たぶんジャンプかな?
敵の過去のエピソードを数週使って掘り下げて、そいつの強さや性格づけに深みを持たせる、その連載手法の援用、ということは言えるでしょう。


「時代性」を考える前に卑近な例を出しますが。
もうひとつは、「あいつ、キレさせたら何やり出すかわからねェ」というのが、ヤンキーマンガではかなり強いカードとなりうる、というジャンル特殊事情もあるでしょうね。
実は「キレる」と「壊れる」は紙一重で、
たとえば映画「仁義の墓場」は、「常にキレていた」男が、最終的に「壊れる」までを描いた映画だということも言えるわけですし。
あとあながち間違ってないと思うんですが、「スーパーサイヤ人」なんてのも参考になっているかも。
「ヤンキーがキレる」のにもインフレが生じてきて、その果てに「壊れる」という事態が出てきた、ということも言えるかもしれません。


さて、最後に「時代性」についてですが、
刑事ドラマ、映画における犯人像という系譜によれば、
60年代、70年代は巨悪による汚職事件や、その反面の貧しさ、都会に出てきた孤独が引き起こしてしまった事件、などがけっこう見られます。
あるいは学生運動くずれとかもたまーにありましたが。
よく言われることですが、80年代まではまだ刑事と犯人とはコミニュケーション可能だった。


ところが、80年代に入ってから感情移入不可能な凶悪犯罪、猟奇殺人、通り魔殺人、何もかも満ち足りているのに殺人、など、捕まえる側とのコミニュケーションが成り立たない例が、ドラマでは増えてきます。
もはや貧しさだけが犯罪の引き金ではない、ということになる。


ヤンキーというのは、少なくともマンガや映画内では自分たちの決めたルールによって行動する集団ですから、80〜90年代に、このテの影響は受けにくかったのでは、という思いはしています。


ではなぜ90年代に入ってからヤンキーマンガにおいて「壊れたキャラ」が登場してきたかというと、
ひとつには「あちこちのヤンキー集団を暴力で平定して近隣一帯を支配する」というヤンキーマンガの基本的な部分が壊れていった、というのがあるのではないかと。
そもそもが、暴力団抗争ものと違って、(マンガにおける)ヤンキー同士の抗争というのは金銭的なメリットとかはほとんどなく、単にメンツだけの問題のような感じもするので、本来的にその「抗争」の根拠は薄弱だったんですが、
今までどおり、なおも積極的に物語を暴力的に転がしていくには、
キャラクターの行動原理が「壊れている」というふうにするのがもっとも説得力がある、ということなのかもしれません。


「キレる」は一過性のものですが、「壊れる」というのはぶっちゃけて言えば「狂ってる」ということで、狂気は一過性のものではなく、持続しますから、物語を転がしていく原動力になりうる、ということです。


そうそう、それと「キレるキャラ、壊れたキャラ」をヤンキーマンガが容認できた前提として、
「任侠ものよりもあるべき『漢(おとこ)』感が曖昧である」ということは言えると思います。
任侠もので「壊れたキャラ」を描き出すと、自然とやくざ社会からはじき出されるような傍流になるしかないんですよね。

ビーバップが顕著ですが、「ヤンキーマンガは単なる任侠ものの子供版ではない」という、私にとっては興味深いということです。


で、もっと言っちゃうとヤンキーものにおける「ヒーロー像」の凋落、ということもある。
それはヤンキーもの以外でもそうですけど。
通常、「壊れたキャラ」というのは、大カリスマの番長のもとで、うまくコントロールされて働く存在だったと思うんですが、
現在はじゅうぶん、カリスマキャラと対峙するまでに認められてしまっている。


それは、田中宏の場合は「壊れたキャラがカリスマと対峙できるようになったのではなく、もともとカリスマというのは『壊れたキャラ』なんだ」という主張が入っていると思います。
このあたりのスルドサは、「エヴァ」的なものの流行とはまた別のところにあるような気はしますね。