ポップジャム

NHK。司会が西川貴教アンジャッシュになってから初めて見る。
西川氏は意外にデキるやつだった。後はアンジャッシュと連携みたいのがでてきてくれば面白くなると思う。前任の優香があまりに優等生的な司会しかできなかったから。


歌っている間にあさっての方向を向いている小倉優子の目つきについて指摘。あれ、狙ってるのかどうかわからんけど歌を指導している人はやめさせた方がいいと思うよ。アイドルって目で殺してナンボでしょ。あややとか見てればわかるじゃん。

限界アンタッチャブル

テレビ朝日の……単発番組かな。
アンタッチャブル山崎が、シェフのかっこうでトラの檻に入ったり象が歩いていくところにねそべったりというチャレンジング&リアクション芸バラエティ。


……ちょっとわたし的にはダメだったなァ。
往年のヒップアップ島崎、稲川淳二ダチョウ倶楽部などのリアクション芸をリスペクトはしてますし、今後アンタッチャブル山崎がそっち路線に行くことは想像に難くないんだけど、なんつーかリアクションありきで企画は安易だったと思います。

背伸び問題2

コレの続き(下の方のコメント欄もできれば参照してくだせえ)。


いろいろとご意見をいただき、ありがとうございます。
いろいろと教えてもらって思ったのは、コレはどちらがいいとか悪いとかではなくて、現在の若い衆のダサい/ダサくない、カッコいい/カッコ悪いの線引きって、少なくとも一部では「自分のものにしてるか、どうか」なのかなと。


そういうのって別に過去になかったわけじゃなくて、たとえば相原コージが「神の見えざる金玉」だったかな、あのマンガで「キックオフを全巻揃えてた」とか「横浜銀蝿を喜んで聞いていた」とか、そういう「恥ずかしい過去」を告白するというマンガを描いてた。
キリストみたいな人物(相原本人?)が突然出てきて懺悔をせまる、という設定で。
自分自身は「わかりもしないくせにタンジェリン・ドリームのレコードを持っていた」と描いてましたね。


「こういうのを好きな自分が好き」批判というのも、「不思議ちゃん批判」として前からあったし。
ただ、そこにはやっぱり「特定のものを自分のものとしているかどうか」よりも、「世間的にカッコいいかカッコ悪くないか」という基準が多分に入り込んでた。その辺、混然としてた。


今だと、「キックオフ何が悪い」、「横浜銀蝿何が悪い」って開き直ることは可能だと思うんだけど、80年代終わりくらいまではもうアイテムのチョイスの段階でダメ出しされるというか。


で、そういう混然とした部分で「『ダサい/ダサくない』を何で勝手に決めるの? だれが決めてるの? オレは自分でかっこいいと思ったことをやってるんだよ。カッコ悪いのはファッションに踊らされているやつらの方だ」って宣言したのが「オタク学入門」だと思う。


そうそう、だから以前、オタク/サブカルという基準を私的には「60年代の政治の季節を視野に入れてるかどうか」としたけど、もうひとつの補助線としては確実に「ダサいかダサくないか」という基準が、少なくとも80年代にはあった。
「政治の季節」って70年代半ばの三無主義によって「ダサい」とされたんじゃないのかよ、と思われるかもしれないけど、そこにこそ大塚英志の「おたくの精神史」で言われてた80年代前半部分のそこら辺の感覚の変質、あの当時の資本主義礼賛的風潮は、必ずしも70年代の学生運動とまるっきり分断されたものではないんだ、という視点が重要になる。


もっとメジャーな人を引き合いに出すなら、吉本隆明糸井重里も同じ感覚だったし、糸井チルドレンもそうですね。


今は、ダサい/ダサくないの基準がもう少し踏み込んでいる印象ですね。80年代はもっとザックリしてた。ダサい/ダサくない、自分のものにしてるかどうか/単なるファッションか、背伸び/幼稚、モテる/モテない、ってもっと混然としてた印象がある。
やっぱり「オタク学入門」ってひとつの転換点だったんですよ。まああの著作だけではなくて時代風潮もあると思うけど、90年代半ばで「ダサい/ダサくない」の基準って一度シャッフルされてる気がする。


ああ、それと「KILL BILL」ね。アレは、普通のカップルも見たと思うんだよね。20年前につくられて公開されたら、中高生男子しか見に行かなかったと思う。
あれはダサい/ダサくないの基準が一度シャッフルされたことの象徴。
20年前だったら、評価基準もほとんどなかったと思う。
で、だからこそ「映画秘宝」が今あるというわけで。

マリーナのなんとか

コレの続き。
私は、今回の結婚と「負け犬」談義を結びつけるのは少々疑問。
むしろ、前に書いたけど「満里奈の神通力」という個人技限定で考えるべきだと思う。
でないと、能力のない本当の「負け犬」の人たちが気の毒。
森昌子の離婚談義もそうだけど。
森昌子は、元一流演歌歌手っていうツブシがきくものを持ってるから離婚に踏み切れるわけで(現時点で本当にするかどうかはわからないけど)。
森昌子的立場で、離婚したくてもできない人はたくさんいるでしょう、たぶん。自活力の問題で。
それなのに、一般の熟年主婦に「離婚したいですか?」とかテレビで街頭インタビューして、ぜんぜん違うだろ立場が昌子とさー。普通の人は、離婚してもやっていけるならしてるし、やっていけてないなら仕方なく離婚しないだけだって。

mixi2

http://d.hatena.ne.jp/headofgarcia/20041025

あ、そうだったのか。やめてたんスね。
まあ、いろいろな考えがあっていいんじゃないでしょうか。
その後の吉村さんの日記を読んで、アレが具体的な話だったというのでちょっと問題の焦点がどこにあるのかわからなくなってしまったところがあったりして、まあだから何かというと私は何も考えていなかったりします。


パソコン通信経験者ほど、mixiに関してはいい意味で適当なつき合い方をしていると思う。


吉村さんの日記では「友人関係が計量可能になってしまう」ことを問題視していると受け取ったんだけど、mixiってマイミクの人のマイミクって自分のとはまた違う集合体なわけじゃないですか。それは一覧を見て一発でわかりますよね。
要するに、それぞれの人間関係の集合体が微妙に重なりつつ輪ができてるわけで、だからことさらに閉鎖性というのは私は感じないんですよね。閉鎖性を問題とするならば、ね。
たとえば、私の場合知り合いでもマイミクになっていない人はたくさんいて、「ああ、いるな」って思うんだけどその辺は曖昧にしてます。「承認して」って言われたら考えるけど、あまりにも厳密にすべてをマイミクにしてしまうと、現実の人づきあいをそのまま引き写したようになってしまって息が詰まる気もするし。


あと、全員のすべての日記を読んでいるわけでもないです。それは時間的にムリ。でもパソコン通信ってそういうものだったしね。特定の人の書き込みをすべて読むなんてことは、あまりしなかった。


「出会い系的使用」に関しては、そもそもそこに私が入れてもらえないのであまりにも関係のない話(笑)。
「ネットホスト」という概念がいまいちよくわかりません。じゃあネットホステスというのもいるのかな。
あ、それと、ここにこんなこと書いてますが面識のない人や関係が微妙な人(心理学用語で言うところの半知り程度の人)は、私は承認拒否もありえます。ときどき知らない人から「紹介してくれ」とメール来るけど、いっさい無視します。知らない人、いったいあなたは私に何をしてくれるんですか?


っていうか、具体的にお金ください。50億円くらい。