オタクとサブカルの違いシリーズ(思いのほか長文になっちゃったよ)

またこの話題から引っ張ったりしてみる。
http://d.hatena.ne.jp/headofgarcia/20041027やさぐれ日記暫定版
いろんな人のイメージを知るのは面白いなあ。料理の仕方もナイス。笑わせていただきました。


本歌取り的じゃないけども、自分も会話調で考えてみよう。
「で、オタクとサブカルの違いって何? オッサン的に」
「もう、フリから気にくわねえ。オマエは斉藤孝先生がCMでやってる変な体操でもしてろ!!」
「ああ、あれムカつきますよね。おれもそう思います」
「いわば『あれがムカつく』っていうことに、CMの送り手がまったく気づいておらず、受け手の中でも少数しか気づいていなかったという状況が80年代だったと言えよう」
「えーっ、そっから入るのかぁ」
「そういう関係性の中で、はじめて『あれっておかしいんじゃねェの?』みたいに思えるコミュニティが若者の中で発生しだした、というのがオタク/サブカルの黎明期だったのではないかと」
「オタクも入るんだ」
月刊OUTを、アニメックを見よ。ステロタイプなオタクは過去、ドラマなどで『アニメなどに盲信的』と描かれる場合が多かったが、のめり込みと同時にそれを突き放す目を持っていたわけだよ。そして、盲信/突き放し、っていうスタンスがオタク個人の中でもコミュニティの中でもバラバラであるところが、『オタク』の外から見た不透明性を表しているとも言える。そして、世間的にはミヤザキ事件によって『盲信』側へのイメージに大きくシフトしてしまった時期があったわけだ」
サブカルはどうなったのサブカルは」
「うん。それで、これはおれの持論なんだが、政治的な視線と最終的にはどうしても切り離せない部分を持っている。もちろん、オタクにも政治や世界経済に興味を持っていたり造詣が深い人はいくらでもいるが、それと広義のサブカルチャー的アイテムを結びつけて考えるかどうか、がひとつの分かれ目になる」
「じゃあ、社会事象と結びつけたアニメ評論なんかはサブカルに入るわけ?」
「これも私の持論だけど、それだけではサブカルとは言えない。単に社会事象と静的に結びつけるのではなく、社会変革に積極的に寄与しているか、していないかで作品評価をする、というのがサブカルだというイメージが私にはある」
呉智英が『現代マンガの全体像』で、『そういう見方はプロレタリア芸術論じゃないか』と批判した見方ということですか?」
「必ずしもそうではないからこその『サブカル』という軽めの言い方なのではないかと、私は思ってる。表面上は、『こんな面白いこともありますよ〜』みたいな感じなんだよ。でも、ひと皮むくと社会変革への視線が、やはりある。
評論家の平岡正明は、美少年、入れ墨、SM、極真空手などの評論を手がけた。ジャズとか山口百恵とかもやってるけどそっちは知らないのでおいとく。
美少年、入れ墨、SM、極真空手はもちろん60〜70年代の文化状況の中では完全に異端、傍流だったわけで、それをすくい上げる意味を持っていた。
ここで留意しておかなければならないのは、ヒダリっぽい人たちには60〜70年代に民衆史に目を向けないといけないという反省から柳田民俗学とかを勉強した方がいい、という風潮があったみたいで、それとはまた別に、普通にそういう意図なしに民俗学をやっていた人もいたということ。
要するに、研究題材は同じでもその意図が違う人たちが同時代的にいて、今もいるということだ」
「話がそれてきたね。要するに、ポップな中に社会変革の意志をしのばせたのがサブカルだった、ということが言いたいわけでしょう?」
「そういうことになる。ところが、90年代に入って60〜70年代的世界観に基づいた社会変革の戦略というのは、いよいよ無効になる、あるいは一見無効になったように見えてくる。そうすると、『サブカル』は懐にしのばせていた『社会変革の方法論』自体がおぼつかなくなってくる。現在、ネットでよく見る「サブカルってスカしてる」という物言いの源泉は、具体的にこの時期から来ているのではないかと思う」
「要するにさあ、サブカルって何か含みがありそうだけどとくに何もないんだよねえ、会話の一方の私の役割からすれば」
「でもそれは、今も言ったように『社会変革が無効、あるいは無効に見える』という状況からすれば仕方ないということも言えるんだよ。十数年前の私のオッサン記憶では、『サブカル』側にカテゴライズされていたテクノとかトランスのレイヴっていうのは、どんなにたくさん人が集まってもそれ自体に反抗の意図はない、少なくともなんかのきっかけでそこから暴動になるんじゃないかとかね、そういう幻想は皆無とは言わないが、かなり削りとられてた。
確か数年前のラブ・パレードのテーマが『ロボット社会への警告』とかいうそれ自体意味のないもので、『集って、踊って、騒いで、解散する』という純粋に『それ自体が目的』のものになっていったと思う。
そりゃあ、きちんと見ていけばいろんな『政治的なもの』や『社会問題』が読みとれるんだけど、鶴見済のいっていた『レイヴとかで踊るのは一種の巨大な貧乏ゆすり』という表現がぴったりくる。『貧乏ゆすり』そのものには意味なんて何にもないからね」
「つまりサブカルは大きなテーマを失ったと。そういうことでいいんですか?」
「少なくとも、80年代的な図式は失われているといっていいと思う。それと、サブカルにおいて以前は思いつかなかったもうひとつのキーワードがある。
それは『意味のないものに、あえて意味を付与する、意味があるようなふりをする』ということだ」
「はあ」
「要するに、自分でも意味がないんじゃないかということを過剰に持ち上げてみたりすることはかつては『サブカル』だったんだよ。で、それは民俗学的視点とかそういうんじゃなくて、そのスタンスそのものが、実は遠回しに『社会変革の意志』を体現していたんだ。70年代終わり〜80年代は。
そういう『価値の混乱』みたいなことを意識していたの。
ここが、過去の実績を振り返ってもっともサブカルが軽視される原因になっている。たとえばオタクと同じように怪獣を取り上げるのでも、『今、あえて怪獣』みたいな妙なエクスキューズを付ける。そして、ブームが去ると提唱者はどこかへ行ってしまう。一種の『焚き付け屋』みたいに受け取られかねない。
その間に、オタク側は資料集めや年表づくりなどの地味な作業をせっせとしていたわけで、20年経って蓋を開けるとサブカル側の旗色は、悪くなる。
しかしこの話には続きがあって、『意味のないことを過剰に持ち上げる』のも、超本気になってそれが面白ければ残っていく。前述もしたけどみうらじゅんとかがやっているのはそういうことだし。
かつての『政治の季節』の価値観が機能しにくくなってからも生き残っている人たちというのは、そういう自分の『色』を持っている人たちだよね」
「なんだかケムに巻かれているような気がするけどさあ、やっぱりサブカルって現状では中身もないのにスカしてる、ってコトなんじゃないの?」
「うーん、だからそこは、70年代的な政治にコミットするという意味での価値観が、90年代にほぼ完全に息の根を止められたことと関係するんだよ。一度リセットされたみたいになっちゃって、過去のアイテムの価値観が等価になってしまった。サンプリングとかカットアップとかってのはまさにそれを利用した手法でしょ。で、今はオタクだろうがサブカルだろうがサンプリングを使ったりするのは当たり前になってるから、その意味では両者の厳密な違いというのはなくなったとも言える。
しかし、「オタク」側のコミュニティというのは、サンプリングでもその歴史性というか過去からの連続性があるから、それはそれなりに意味がある。だけど、サブカル側は「社会変革」を懐に忍ばせたまま、本当の意味で「何でもあり」をやったもんだから中身が無効化したときに、サンプリングも本当に何でもありになってしまった(まあ、細かく見ていけば必ずしもそうではないんだけど)。何でもありなら、じゃあなんであえて『サブカル的なもの』を選択するのか、という問題になってきて、そうすると『単に背伸びなんじゃないの?』というところに行き着いてしまう、というわけだ」
「じゃあ、やっぱり私の思っていることは正しいんじゃん」
「ところが、コトはそう簡単におさまらないんだ。本当にただの背伸びの人たちは置いておいて、広義のサブカルチャーの人が80年代当たりまでかろうじて続いてきた社会変革問題をどのようなものに変質、あるいは違うもので代替しようとしているかが問題なんだ(というか、私が重要視してるってだけだけど)。この段階で、すでにオタクとサブカルの差はなくなっているとも言える。あるいは逆に顕在化させているとも言える」
「意味がわかりませーん」
「たとえば、最近いちばんわかりやすく問題点が浮上したのが『華氏911』をめぐる論争だろう。あれは最終的に『政治的なコミットメントをどうするか』ということが争点なんだよ。このあたりは先にあげた呉智英の『プロレタリア芸術論的評価批判』の争点をもう一度繰り返していると、私には思える。
別の言い方をすれば、特定ジャンルの作品の完成度のみを評価するべきか、社会変革の力を評価するべきかという問題で、同じことは『ゴーマニズム宣言』の、とくに『戦争論』あたりからの争点なんだよね。
そして、小林よしのりが『自分はマイナーな人たちから評価されるけど、自分自身はメジャー指向なんだ』って言っていたことと通じるんだけど、『ゴーマニズム宣言』という作品自体が芸術至上主義、エンタテインメント至上主義、作品の社会変革への有効性などをシャッフルしようとした実験作であると言える。
ただ、面白いのは小林よしのりが一貫してオタク嫌いであること。コレは、80年代の美少女ブーム、ラブコメブームに自分がワリを食ったというルサンチマンから来ているみたいだけどね」
「ますますわかりませーん」
「自分も書いているうちにわからなくなってきちゃったよ(笑)。でも、『スカしてるからムカつく』っていうのはやっぱり『内情がない』としか受け取られてないっていうことで、サブカル側の人はこの言葉は受け止めた方がいいと思う。
それで、『スカしてる系』の最後の牙城、希望の星(?)って菊地成孔じゃないかと実は思ってます。この人は『結果的にスカしてる』んじゃなくて、積極的におしゃれなものにアプローチしてるのが強い。彼のやっていること自体が、たぶんサブカルに偏在する『小汚いことがカッコいいんだ』みたいなことへのアンチ・テーゼだと思うんだけど。
彼のやっていることをサブカルと断じることもまたむずかしいんだが、少なくとも80年代おしゃれ軍陣営としてはもっとも過激・攻撃的なところが面白いと、私は思ってますね」
「本当にわけわかんねーよー」
「『スカしたサブカル野郎』ってクサされてる人は、『自分がなぜスカさざるを得ないのか』ということを追求しないと本物にはなれないということだよ。だいたいどんなに『伝統文化』とかホザいてる人だって、たいていは洋服来て電車乗ってパソコンやってんだからさ、『あんた、洋服着てるじゃん』って言うだけでも、実は痛いとこ突いてるんだってことに気づかなきゃ」