「社会評論」な人々

「オタク」っていうのがずいぶんいろいろ文句を言われて、そりゃもう各方面から文句を言われているわけだが、「オタク的うざさ」ってのがあると認めつつ「社会評論的なうざさ」っていうのもあるよな、と思った。


今は「思想」という言葉を使うと、なんというかソレにしたがって生きねばならない融通のきかないルールのようにとられているけど、自己ルールで文章を書いていない人はいないわけで、自分はそういうのも「思想」の範疇に含めている。生活信条というかね。


それで、「オタク」っていうのと同時に「社会評論な人」っていうのもいると思うわけだよ。
そういう「思想」の人は一定量います。
……と、こういうことを書くとやれ80年代的なサブカル風レッテル貼りにすぎないとか、印象だけ言ってて中身がないとか言われたりするんですが。
実はそういう人を「そういうのが好きな人」、「そういうシュミの人」と片づけようとは思わないの。そういうのに実はシンパシーがあるの。

だけど、心の奥底ではどこか信用できない部分があって、いやこんな曖昧な書き方をしてしまっては「おれのことをそうだって言うのかい?」とかどこかから言われちゃいそうなんだけど、決してそんなことは思っていなくて、逆に言うと「その人が社会評論的な物言いをするときに、その人が得をする部分って何だ? けっきょく自分が得をしたいだけじゃないのか?」っていうふうに思ってしまうということです。


うまく書けないですな。
逆に言うと、社会評論的文章というのは、その書き手が「いったいこの人はどこで得をするのか?」が本来的に見えにくい文章だということです。
だから「コイツはサヨクなんだ→サヨク的な世界が最終的に実現することが目的なんだろう」、「ウヨクなんだ→ウヨク的な云々」、「売名行為だ」などの悪口が飛び交うんだと思う。


オタク間の論争ではあまりこういうことは……まあサヨだウヨだという批判はあるけど、あまり有効とは言えない。それはオタクの言論活動の目的が「自分語り」と「ネタ」というふうに極端化しているからかもしれない。自分語りはそれ自体が目的だし、ネタはウケるのが目的だから。


ここでまた誤解をされると困るんだが、オタクというのは社会評論的文章を嫌ったりパロったりするところがあるから、社会評論な人がオタクを毛嫌いするというケースも生まれてくる。


でもね、私はそんな対立図式にはかなりウンザリしています。


両者をアウフヘーベンする方法はないかと思ってる。


ひとつ思うのは、両者とも「一般庶民」と乖離しているということ。
ここでまた、「社会評論な人々」は、庶民の言葉を代弁しなきゃいけないとか、おれは大衆蔑視しているからいいんだとかっていうことになるからややこしいんだけど、


大衆を蔑視してようが、「遊び人の金さん」みたいに庶民に混じって暮らしてようが、そこにいる人と考え方が違ってるんだからやっぱり「庶民そのもの」じゃないわけでしょ。


そこら辺に、もう少し歩み寄れる部分があるんじゃないかなあと思っています。


それと、これはあちこちで書いている私の持論なんですが、論壇的な物言いをする人は、オタクを「零落した知識人」としてとらえる場合が多い。
そうじゃない。逆で「底上げされた一般庶民」なんです。
このあたりは、時代のエッジであった第一世代には当てはまらないかもしれないが、「浸透と拡散」とベビーブームの結果、大量に生み出された「第二世代」以降には当てはまると思う。


それにしても「アウフヘーベンする」で使い方あってんのかな。
フルヘッヘンドする」だっけか。