恋愛至上主義について

当ダイアリー内の
http://d.hatena.ne.jp/nittagoro/20041023#p4
の続き。


http://d.hatena.ne.jp/headofgarcia/20041022
こちらでのやりとりに関連して。あんまりよそ様のところでコメントを長く書くのもナンなので。


「恋愛の歴史」としての恋愛論は、けっこう本も出ている。たぶん呉智英が著書「バカにつける薬」で「第4章 愛の悲しみ」という小論を書いたことから、「前近代にも恋愛はあったかなかったか」という議論が起こっているようだが私はバカなのでその辺はわからん。


http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/457571075X/qid=1098573781/funukekyowako-22


以下は私の学生レポート的メモ書きなので、間違っていたらご指摘お願いします。


明治くらいまでさかのぼるとわからんが、戦後は間違いなく「恋愛至上主義」の時代。
そして戦後とは何かと言うと、一貫して村落共同体が解体し続けている時代だと言っていいと思う。
国→村落共同体→家、というふうなまとまりになっていて(国→村落共同体の間にはギャップがあるだろうけども)、大きな流れとしてはどんどんみんな村から出ていって都会に住むようになった。
みんな「家」がイヤだった。
だから、「うさぎおいしかの山」的な「村落共同体の良さを思い出してみませんか」みたいな動きというのは、ぜんぶその反動だと思う。まあこの辺、「村では雇用がない、働き口がない」などの経済的な問題が関係しているとは思うけど、気分としてはみんな都市に出たがった。


「村落共同体」の崩壊とは、同時に「個人を確立したい」ということである。
もともと結婚は家同士の結びつきの要素が強かった。結婚後も「家」を保持することに腐心しなければならない。子供ができない嫁をいびったりしたのもそのせい。「家」を存続させるには子供が必要だから。
で、みんなそういうのがイヤで個人主義になった。


一方で、自分の内的発露によって「恋愛する」ことは、その個人主義をより補完させた。だって親から決められた相手と結婚するんじゃないんだもの。自分で決めるんだもん。一人でできるもん。
ということで、恋愛結婚の方が見合い結婚より上に見られたりした。最近は知らないが、10年くらい前の私の周囲ではそんな感じでした。おかしいと思ってたんだけどね。


そこで、1940年代生まれの人たちが恋愛結婚の果てに夢想したのは「ニューファミリー」だ。簡単に言うと「奥様は魔女」みたいな家庭ね。って例が古いか。
ちっちゃいけどかわいい家に住んで、まあできれば両親とは別居がいいんだろう。それで夫と妻とかわいい子供。
核家族」と「ニューファミリー」が同義かどうかは、勉強不足でわからないんだけど……。


それでうまく行った家庭もあったし、行かなかった家庭もあったんだろうが、「ニューファミリー幻想」の問題点はその幻想が生きていた当時から指摘されてもいた。
要するに、核家族化は「家族」そのものの解体ではないのか、その先に本当に幸福はあるのか、ということが問題にされた。
これもいつ頃かははっきりわからないが、「仮面的家族が崩壊する、あるいはそれを立て直す」というテーマの小説、ドラマ、映画が80年代まではよく描かれた。
それとは逆に、「アカの他人がひょんなことから知り合って、疑似家族を形成する」という作品も見られるようになった。これは「核家族問題」の裏返しだ。
(マンガ「莫逆家族」は明確にこの路線の延長線上にある。)


「魔女っ子もの」のほとんどが、「幸せな家族」を裏テーマにしていることも興味深い。カブと二人暮らしをしているサリーちゃんのパパとママは、魔界にいるくせにひんぱんに出てくるし、「魔女っ娘メグちゃん」の居候する家庭はまさに理想のニューファミリー。
また、「クリィーミーマミ」のような「魔法を授かる」パターンでも、その背景となるのは理想の家族だ。


「妖精だの宇宙人だのアンドロイドだの」の美少女が男の子のところに押し掛けてくる「おしかけ女房」パターン。これも、実は家族幻想がなければ成り立たない。
しかも、面白いのはこのパターンは「核家族」でなければ成り立たないのだ。
なにしろ、核家族化が進行し、主人公の男の子に個室が与えられていないと、やってきた不思議美少女が隠れる場所がない。
よく、男の子と美少女が同居できる方便として「両親が長期出張中」という設定を出せるのも、核家族化ゆえである。


ところがだ。「ニューファミリー」は個人主義のあくまでも妥協の産物である。
徹底して個人主義になったら、家族は解体してしまうし、恋愛だってうまくいかなくなってしまう。
個人主義→恋愛」のところのステップがうまくいかないのがずっと問題になってきているということは言えると思う。この間を埋めるのは何らかの「思想」なのだが、それがなくなってしまったら、恋愛の必要性を感じなくなる人は恋愛をしなくなる。
一方は売春・買春だけでコトを済ませる人で、セックスさえ面倒くさくなったらそれもやらなくなってしまう。

でまあ、世の中の大半の人が「ヤりたい」方向でいるとする。「恋愛至上主義」は、ヤりたい人にとっては便利な方便だ。とくに男にとって。
女性側は、水商売をやることの敷居が大幅に下がったと同時に、パートナーに対する「水商売へ行く」ことの忌避が、私には強くなってきているように見えるから、「恋愛」してるからヤりましたというのは、まあ出会い系の惹句にもよくあるけど便利なうたい文句だ。


また、「ナンパ」が、単純な買春よりも上に見られているのにも注目されたい。ナンパはテクニックが必要だからだ。これも個人主義にともなった能力主義から生まれた価値観であると思う。


恋愛至上主義」は、裏に「セックスに特別な思想的価値を置かない=セックスフレンドの容認」をテーマとして抱えてたんだけど、80年代くらいまではそれを隠蔽していた印象がある。が、今はそれすらも隠されていない。
当然だ。「恋愛至上主義」が矛盾を誤魔化しつつ「個人主義」を育ててきたとすれば、個人を束縛する「恋愛」の部分が捨て去られても何らおかしくないのだ。
これで、より個人主義は徹底していく。


「少年ラブコメ」が常にヌルいのは、この「恋愛至上主義」、「個人主義」、「愛のないセックスはありやなしや」、「恋愛したあと、果たしてニューファミリーをつくるのか」、「家族をどうつくっていくのか」といった諸問題をすべて宙づりにしたままお話が進行するからだ。


それでもまだ80年代には、親の代やそのちょっと下のセンパイたちによってつくられた「家族」が、解体の予感がありながらもお手本としてあった。
が、現在はそれすらもない。


しかし、個人主義の進行は止まらない。そうそう、「女の子が簡単に援助交際をやってしまうのは、自分にそれくらいの能力しかないと思っているからではないか」という指摘もどこかにあったけど、これが本当だとするならばやはり個人主義を徹底したからだ。
個人主義は、個人の能力で生きていかなければならない主義だからだ。


ひきこもりを、単なる甘えと考えることもできるが、「人間は個人でも生きていける、生きていかなければならない」と植え付けられまくった人が、それがうまくいかないことで非常に強いプレッシャーを受けていると考えることもできる。
いったい、どこのだれが広めているのかしらないが、「キミにもできる」と煽っておいて、できなかったら「負け犬だ」と蔑むという見えないシステムが確立されているのだ。
しかも、経済的にはともかく(まだ日本はよその国に比べれば豊かだから)、思想的にはまったく何のフォローもない。


いささか言いがかり的なことを言えば、互いに重なるところもあり、矛盾するところもある「個人主義」と「恋愛至上主義」を中途半端に、しかし浸透させ拡散させた人々によって、今の若い人は振り回されているように感じてしまう。


ちょっと途中で「デカレン」を見るために中座したので何を書きたいのかわからなくなってしまったが(笑)、まあまあた思いついたら補足します。