フィギュア萌え族

昨日のここに書いたテキストがあちこちにリンクされてて、少しビビりました。
まったく、私って人間は見られてないとむくれるくせに、見られてるとビビるという……(笑)。


ちょっと書き流してしまった部分があるので補足します。
あらためて大谷氏の文章を読み返すと、
http://homepage2.nifty.com/otani-office/nikkan/n041123.html

これはオタク叩きのテキストとしても、事件の犯人像を探るテキストとしても、かなり決めつけが多くてヒドいと思いました。
私は言論の自由から、叩く人がいてもいいとは思うんだけど、普通の文章、オタク云々を抜きにしても、ちょっと飛躍が過ぎていると思う。
確かにこのテキストに限って言えば、マスコミが求めているもの以前にこのヒトの責任もあるとは思う。


それと、前回の私の書いたテキストのタイトルを「謎」としたのは、大谷昭宏という、一般的に信用されるに足るとされるジャーナリストが、ミヤザキ事件を知らないわけがないと思ったから。
批判的な目で見ていたとしたらよけいに、ミヤザキ事件を起点として「虚構と現実の区別が曖昧になる」ことを問題視し、それは伝言ダイヤルやパソコン通信、ヴァーチャルリアリティ、インターネットあたりまでつながっていくことだから、まともなヒトなら、「オタク叩き」で記事を書き飛ばすときにだって、少なくともパソコンが普及し始めた頃くらいに戻って考えるんじゃないかと思ったんです。


100歩譲って、「虚構と現実の区別がどうたらこうたら」という論旨でもいいとしましょう。
でも、だったら何でわざわざ「萌え」という最近の言葉を持ち出してきて、今回の事件以前の(まあ、今回の事件と関連づけるのもちょっと気が早すぎると思うが)「虚構と現実の区別がつかない」事件との差別化を図るのかが、素朴に理解できない。


それと、「構造が問題だ」と書いたことについて。
これには以下の2点、思うところがある。


・「マスコミはあらかじめ決めたストーリーに沿って記事をつくっているだけではないのか」ということ
・オタクとオタク的なもの全般に対する一般人の固定観念


前者はですね、以前驚いたのが、午後6時半頃のニュースで、ニュースとは銘打ってるんだけど一種のドキュメンタリーみたいのやりますよね。
万引きGメンとか、大家族モノとか。
あの枠で、「パソコン通信で知り合って結婚」っていうのをやっていて、それが、「顔も見たこともないのに、パソコン通信で知り合って、初めて会ってもすぐに盛り上がってその場で意気投合してつき合い始める」みたいな感じだったんです。


それですごいびっくりして。少なくとも、私の周辺でパソコン通信やってて、「顔も見たことない段階で恋愛感情を抱いて、会ったその日につき合い始めた」とか「結婚した」とか言う人、いなかったから。
パソ通時代でも、オフ会で知り合って、つき合いはじめてというのが普通だったんじゃないのかな。
それが、パソコン通信が顔が見えないコミニュケーション手段だ、ということがわかると、とたんに「ネット結婚は顔も見ないで結婚することだ」ってなるのね。


あと、「ザ・ワイド」をよく見るんですが、芸能ネタはともかく、政治とか犯罪ネタになると、なんだかよくわからなくなるんですよ。わからないっていうか、どんな問題を扱ってもみんな同じになってしまう。
いちおう硬派っぽいんだけど、ぜんぶ結論が決まってる感じで。


だから、やらしい想像をすれば、大谷氏はそういう、マスコミ(というか、それを受け取る側も含めて)がどういう記事に食いつくのかを知っていて、それに沿って書いたんじゃないかと思った。


後者の「オタク全般に関する固定観念」、これも容易には変わらない。
ミヤザキ関連の本を読んでいて驚いたのは、ミヤザキは幼女を殺してその遺体をビデオにおさめていたんだけど、そういう供述だけはとっていて、実際の録画を探し出すために、警察で手分けして、ミヤザキの何千本ものビデオを見たというんですね。
で、彼の録画したものは子供番組が多かったんだけど、それを見させられた警察官のコメントが、もうとりつくしまがないほどに「何でこんな子供番組見なきゃいけないんだ」という感じだったんです。


すごい、もう本当に突き放した感じなんだよ。
で、別の番組で、「TVスクランブル」というのが昔ありまして。その中で、「映画を楽しむために、事前にすべきこと」を映画のジャンル分けして教えてくれるというコーナーがあった。
詳しいことは忘れたけど、歴史ものを見るならその時代の勉強をしておけみたいなことだったと思う。


で、「アニメ映画」にはどう対処すればいいか、っていうと、「前の晩寝るな」っていう。
どういうオチかというと、「前の晩寝ないで、映画館で上映中に寝ろ」と。
この番組がやってたのは確か80年代後半だったと思うけど、この時期にはあくまでもアニメというのは、せがむ子供を仕方なく連れていって見せてやるものであって、大人が楽しむものではとうていない、という考え方だったらしい。


たとえば、今現在「クレヨンしんちゃん」とか「ハム太郎」を見に行った親が、ここまで作品に対して冷淡なことはないと思うんだよ。
横道にそれるが、確かに昨今の子供向け映像作品はCG技術などは発達しているから、一般人にとっての「作品の質」というのは何なのかという問題に行き当たるとは思う。


が、それはまた別の話で、まずこうしたことを聞いて最初に思い浮かぶのは、いっぺん刷り込まれたことは一般人は容易には変えなくて、何かブレイクスルーがないと変わらないということ。
だから「宮崎駿」は一般人にはアリだけど、「ローゼンメイデン」はキッツいだろうなとか。


今、「特撮」はSFXとか言われて一般人にとって「昇格」して、アニメも宮崎駿とか押井守とかディズニーとかがあって「昇格」して、フィギュアがちょうど「なんだかわからないもの」として浮上しつつあるんじゃないかと。


そういう一般人の固定観念と、報道側のパターンとが合致して、変な結論になることも多いんじゃないかと思う。


そこで前回のテキストのタイトルを「謎」とした話に戻るんだが、80年代の一般人のアニメ批判っていうのは、まだ「まんが映画」とか「テレビまんが」っていう名称が残っていたりして、その固定イメージは理解できるんだけど、フィギュアは二次元のアニメを三次元にしたという理解で、もうちょっとすんなり行くと思ってたんだよね。チョコエッグとか、王立科学博物館とかも出てきてるわけで。


だから、いきなりここら辺で、フィギュアやギャルゲーを敵視した、「オタク」でも「ロリコン」でもない変なカテゴリが立ち上がってくるとは思わなかったんで、それが「謎」っていう意味もあった。


でもやっぱり、セックスがからむと一般人ってダメみたいね。拒否反応が出るっていうか。
ダメっていうか、ダブルスタンダードなんだよね。自分たちは虚構世界であるAVとかレディースコミックとかは平気で見ているわけだから。


そんなことを考えていたら、「笑金」も「誰でもピカソ」もあまりにもすんなり見るのを忘れた……。あーあ。だって特番とか続くからさあ。