突発的にとんねるずについて思う

で、とんねるずなんですが、私は愛憎相半ばするという複雑な見方なんで……。


ドリフとかひょうきん族メンバーとかは、何も考えずに楽しんで見れるんだけど、とんねるずって前にも書いたかもしれないけど関東勢で素人芸、っていう、テレビお笑い史の全体の流れからもちょっとはずれてる存在なんですよね。
欽ちゃんやたけしとも違うし。
「芝居系」のコント赤信号シティボーイズなんかとも当然違うし。
いちばん近いのは「ハンダース」だなあ。いや、とつぜん思い出しちゃったよハンダース
素人コメディアン道場的な流れですね。
とんねるず、たぶん素人コメディアン道場には出てないと思うけど。
あと、オーディション番組に出まくっていた頃の竹中直人


古い話だが、とんねるずがまだオールナイトフジに出る前に個人的にスゴイ注目してて、「これは今までになかったよ」と思ってた。
80年代前半というと、まだアニメのパロディネタとかほとんどなかった時代ですよ。
それで「サリーちゃんのフォークダンスのマネ」とかやってたんだよね。
「部室でふざけてる」のをそのままテレビで見る新鮮さがあった。


で、なんか経緯はわからないけど「お笑いスタ誕」で名前を売った展開がどれもいまいちパッとしなくて(私は好きだったんだけど)、秋元康がらみのもので一気に開花する。
すべて学校的にフラットであるような「オールナイトフジ」で、(見た目)「教室」的な平等主義に放課後の部活的ヒエラルキーを持ち込んでて、しかし自分たちはお笑い芸人で、女子大生に囲まれているのに「高卒」という矛盾をウリにするという、こうして書いてても非常に妙なことになるわけです。


が、「とんねるず」を考えるときにはやっぱり「秋元康の笑い」ってものを考えざるを得ない。


そこら辺は「タカイマミコを奪ってオシャレなエッセイ出してるたぬき野郎」っていうルサンチマンと(笑)、彼独特の「ソツのなさ」、さらに「関東のテレビ芸」っていう、テレビを見る限りではかなりラディカルなことをやっている吉本興業でさえ立ち返ることができる「伝統」を持たない根無し草という意味で、とんねるずを売り出した秋元康、っていう視点はあまり語られていないような気がする。


いやまあ、お笑いマニアの人はわかってるかもしれないんだけど。


「笑いながら怒る人」などのわけのわからないことをやっていた竹中直人、「立ち話漫才」と言われた象さんのポット、一人芝居のイッセー尾形、一世代前だと「素人コメディアン道場」の優勝者を集めた「ハンダース」、コンビで変な漫才をやっていた柳沢慎吾関根勤ではなく「ラビット関根」。
そういう「わけのわからないお笑いタレント」の中にとんねるずは確実に存在してた。


でも、けっきょく彼らはどこかにおさまらざるを得ず、小堺・関根は欽ちゃんの元で修行を積み、柳沢慎吾竹中直人は役者の世界へ。その他の人々も、その他の居場所に帰っていった。
そんな流れでのとんねるずとオールナイトフジ、という感じがする。


要するに、「夕ニャン」のあたりでは、もはやとんねるずは「わけのわからないタレント」ではなくなっていたわけで。
「みなさんのおかげです」で、完全にポジションを決めてからは、現在のナイナイとかロンブーとかびびる大木という、「ネタを見たことはないんだけどいつの間にかテレビにいる人」のさきがけになっていった。
いや、ナイナイも漫才で賞とかとってるらしいんだけど、関東にいると見られないですからね。


このとんねるずばなしにはまだ続きがある。
けっきょく、とんねるずに80年代に少し失望したのは、「笑い」っていうのを最上価値に置いてないんじゃないかという疑念が私にわいてきたから。
たとえば、アルバム「仏滅育ち」はほぼパロディソングで埋め尽くされていたけど(「天使の恥骨」とか大好きなんだよなー、あと佐野元春のパロディも)、セカンドかその次あたりだと、もう歌を「聞かせる」路線に入っている。


新聞評で、「今回のとんねるずは、『歌って』しまった。」って書かれて、ラジオで石橋が「申し訳ないけど、そのとおりです」みたいなことを言ってた。
その後、いきなり飛ぶが「迷惑でしょうが」とか「情けねぇ」あたりだともう本気かパロディかの区別も、視聴者には容易に区別がつかなくなっていく。
でも私はとんねるずはマジだったと思うよ。他の歌手と同じ扱いをしてもらいたいと強く願っていたと思うし、それは80年代以降でCDを出したお笑いタレントの中ではもっとも成功したとも思う(完全に転向したバブルガムブラザーズや、ダンスマンは別として)。


もうひとつ覚えているのは、工藤静香がゲストの「みなさんのおかげです」で、トレンディドラマ風のコントをやるんだけど最後までマジで通して、最後までオチがない、つまり本当のトレンディドラマだったということがあった。
ちょうど「ノリダー」が終わって模索していたときだったと思うけど。


あそこまで行くと、やっぱり少し変だなと思いますよ。バラエティ内でマジドラマをやる、っていうのは空気読めてないってことだと思ってたし。


だから何が言いたいかというと、とんねるずの変遷は考えるとなかなか面白くて、たけしがいまだにある種の信頼があるのは、「オレの原点はお笑い」という立脚点を非常にはっきりさせているからだと思うんだけど、とんねるずには実はそういうのはないんじゃないかということで。


そして、それは80年代の東京的というか、秋元康的開き直りのような気がするんだよね。
さらに、それが実際受け入れられてしまったわけだし。
それはいったい何だったのかというと、たとえばナイナイ岡村が、「モーニングおっさん」をやったとき、踊りはあそこまで完璧にして、「すげえ」って思えるんだけどそこの着地点はやっぱり「笑い」だと思うんですよね。
ナイナイ岡村は「笑わせる」という照準があって、マジなことも含めてやっていると思うんだけど、とんねるずは必ずしもそうじゃない。
「うたばん」で、やっぱりお笑い的なことをやりつつも、最終的には「カッコよさ」に帰結させなければならないSMAPのナカイと組んでいるというのは、非常に象徴的だということは言えると思う。


そういうとんねるずの「流れ」って、まだ完全にテレビ界、テレビお笑い界に回収されていないというモヤモヤ感があって、まあ別にそれでごっちんモジモジくんを見なかったわけじゃなかったんだけどね。


それと、おそらく「芝居系の笑い」に色気を見せていたのは木梨だったと思うんだけど、そもそもそういう需要がテレビで希薄だったうえに、木梨の芝居的芸風も多分に「我流」的なところがあって、すごい変なポジションに流れついたなあという感慨はある。
木梨はとんねるずのドラマ的な部分をサポートしていたんだけど、とんねるずがあくまでも「素人芸を貫き通してビッグになった」存在であるのは、木梨が「芝居系の笑い」を断念し、石橋以上に不思議な存在になったからだという気がします。


というふうに、また実にどうでもよく、かつ知ったかぶりなことを書いてしまいましたが批判はあまり受け付けません。