MCとひな壇と、あと思い出したので今あえてナンシー関のことなど

http://d.hatena.ne.jp/toronei/20060404/J


前にも書いたけど、テレビっていうのは70年代以降、ずっと解体し続けているわけだから、当然こういう方向にも行くと思いますよ。
私が強調したいのは、「まだ80年代的なことをやってる」ってことじゃなくて、それからずっと継続的にいろいろあって続いている、ということなんだけどね。


リンク先がリンクしている伊集院のコメントは5年くらい前のもので、伊集院はそういう「番組の形式の中でいかにまとめるか」ってことに優れている人をこの頃から評価してましたね。
で、ラジオでやってたことを5年経ってテレビでもやり始めた、というふうに考えると流れ的には自然かも。


でもね、長年のテレビウォッチャーから見ると、私も「アメトーク」のひな壇芸人特集のときに褒めたけど、「ああこういう展開でやってるんだ」で終わらないで、そのうえを行く読みをしないといけないと思う。
たとえばアメトークって、トークという名目のコントだったりする回もあるわけでしょ?
だからアメトークのときに土田が言っていたことは本当なのか、という方向もあるわけですよね。


私はナンシー関をすごく尊敬してますが、ネットでときおり目にする「こんなときにナンシー関が生きていたらなんてコメントしたか……」っていう見方は嫌いなんですよ。
それはナンシー関一人の見方なわけだからさ、テレビなんてみんな人それぞれの見方があっていいじゃないですか。
当然、テレビの製作者サイドもナンシー関は読んでますよね。
だとしたら、なまじのテレビウォッチャーが混乱するようなことだって、当然仕掛けてきますよ。


これも何回書いたか忘れてしまったけど、テレビって「場」なんですよね。テレビっていう「場」に乗せてみて、そこから先はテレビ的にどう展開するかはわからないところがある。
で、「テレビにしか存在しない役割」というのは社会的に軽んぜられることが多かった。
だってテレビ以外に比較対照がないから。
ひな壇芸人しかり、テレフォンショッピングの驚く役の人しかり、芸能レポーター、グルメレポーターしかり。


けっきょく、それをどう見るかですよね。


ナンシー関という人は、「テレビ」という「場」に何となく形成されていった役割というものに終生屈託があった人。
「歌手は歌手、俳優は俳優、お笑いはお笑い」っていてほしくって、なおかつアンビバレンツに、テレビでは個々の存在はそれだけではいられないというジレンマを感じていた人。


今は時代が違う。そりゃひな壇の種明かしもされるだろう。
でもそれ以外の、さらに裏側や外側の部分もあるかもしれないし、そんなものは知らなくても番組を楽しめるかもしれない。
それを考えるのは見る側、ってことだよなあ、と、リンク先の話とはずいぶん関係なくなっちゃったけど、あらためてそう思いますね。


それと、さんまと紳助は80年代にいちはやく「テレビにしか存在し得ない役割」を把握していた人たちだということは言えると思います。
とくにさんまはその場を「場」なんだ、と認識してそれをコントロールする、ということにかけては、は30歳くらいで完成してましたね。