犬丸りん自殺2

上記のようなことミクシィ日記に書いたのだが、
よくよく考えてみれば「まったり」も職業にすれば大変だった、というにすぎないと思い始めてきた。
確かに、特定の表現者に対しその生涯と作品とを比較検討することは方法のひとつではあるが、
いちいち対応させて、その対応関係が良くない、ということを作品評価の重要すぎる基準にすることは、
その作品そのものの生命をも失わせかねない。


たとえばちばあきおが自殺したからといって「プレイボール」や「キャプテン」の作品価値が落ちたわけではない。
昔のスーパーマンの役者(クリストファー・リーブより前ね)も、確か自殺しているし。だからといってスーパーマンの価値が下がったわけでもあるまい。
そこは注意深く考える必要があるだろう。


私がモヤモヤしたのは、今回の犬丸りんの自殺に関して、
「まったり」とか「癒し」とかが大嫌いな人たちが「それ見たことか」と思っているのではないかということで、
そういう人たちにつけいる隙を(結果的に作者の自殺が)与えたことに対して、イライラしてしまったからなのだが、


当然だが、海に遊びに来る人たちとライフセイバーや海の家で働いている人なんかは同じ海にいてもぜんぜん立場は違うわけで。


おじゃる丸」のコンセプト自体が否定されたと考えるのは、それを「それ見たことか」と思うのも「残念だ」と思うのも、
青臭い、書生の論議に過ぎないと思うようになった。


ところで、この世には「癒し」とか「まったり」という概念が大嫌いな人たちがいる。
その理由はそれなりにわかるのだが、


簡単に言えば多くの人間はそんなに強くない。
「癒し」を全否定するよりも、だましだまし、何とか無害な「癒し」を探し出してきて、1分でも1秒でも安心する方が、
精神衛生上よくはないか。


かねがね思っていたが、
常識を破壊することは案外簡単で、
問題はその「常識」が偏ったものだとして、
その代替案をいかに持ち込むか、なのだ。


まあ既成概念の破壊が商売の人もいて、それはそれで立派な仕事だが、
だからといって代替案が無い、と断言するのはまた偏った考えだと思う。


そして、今回の件で言うならば、
我々は「おじゃる丸」に何を読みとっていたか、今後何を読みとるのかが、
私にとっては問題ということになるだろう。