男と男(あるいは女と女)の友情はあるか

「男と女の友情はあるか」といった、大学の夏合宿の夜にビール飲みながら話すようなことではありません。
「男と男」、あるいは「女と女」の話である。
自分は、やおいとかボーイズラブに恩も怨みもない人間である(っつうか、恩や怨みのある人間の方が少ないとは思うが……)。
ここはいくら強調しても強調したりない。
だがほんの一点、砂粒くらいの違和感がある。


それは、それらが、「友情」というものを解体して、ドロドロに溶かして別のものに変形させているという印象があるからではないかと思った。
もしも、やおい的視点がすべての「友情」っぽい行動を「やおい」と観るのなら、それは「友情」を否定するのではないにしても、少なくとも「友情を友情ではない、別のものとしてみる」ということではあるだろう。


それに、実はずっとひっかかりがあった。もちろん繰り返すがひっかかりがあるからやめろとか、そういう話ではない。


「友情」そのものの起源とか来歴とかをひもとけば、どうせ近代以降の「自我の確立」がどうとか個人主義の成立がどうこうしてハチの頭だから「友情」という概念が出てきたということにはなるんだろう。
そして、少なくともやおいボーイズラブと言うものは、「友情」概念を邪魔くさいと考えてそれを無くそうとして生まれたものでもないだろう(おそらくやおいボーイズラブが無くそうとか否定しようとか価値を転換させようとかしようと思っていることは他にある)。


しかし、「やおい」的視点で観たときに「友情」は結果的に、あくまで結果的にその物語、シチュエーションにおいて消失してしまう。


自分はそれが死ぬほど寂しいんですが。そう思う人は他にいないのかな?


あるいは、やおいボーイズラブにおいて「愛情を示したせいで友情が消えてしまった」ことを描写するときにはどうするのだろうか?


自分、最近気づいたんですが、「友情」をテーマにした映画とかみると死ぬほど感動するんですよ。
最近だと「フーリガン」とか。

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映画「フーリガン」を、ホモソーシャルがどうのこうのとかフーリガンを現出させる社会の暗部とか語ることも可能なんでしょうがね、
もちろんやおい的な見方もできるんでしょうが、
それやっちゃうと「友情」の部分が霧散してしまう。


「女と女の友情」っていうと映画「チアーズ!」がそうだったんだけど、
これレズビアンって解釈したらぜんぜん別の話になってしまう。
アメリカの映画なので作中にはレズは確か出てこなかったと思うがゲイの若者は出てくる。)

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シティ・オブ・ゴッド」とかもそうだよね。まあ基本的に広義のヤンキーものが多いんですよ。「友情」を扱うというのは。


まあ本来、聖矢とかキャプ翼とか、「友情」テーマのものが「やおい」に読み替えられていったという経緯があることは確かですが(車田正美なんかは自分でも「やおい」を意識してるんじゃないかとも思うが)、
それと「じゃあ『友情』は果たしてあるのか無いのか」という話はぜんぜん別の話で、


よくよく考えるとジャンプ黄金期は「友情、努力、勝利」というふうに「友情」は「ア・プリオリに存在するもの」とされ、だからこそいじり倒されたわけですが、
逆に「友情とは本当に存在するのか? 単なる概念にすぎないのではないか?」をテーマにした作品って、何かありましたっけね。


で、もしかするとないかもしれないね。少なくとも少年・青年マンガにはないんじゃないか。
ということはどういうことかというと、(女性のことはわからないが男性の場合)そもそも多くの人が「友情」そのものを必要としていないのではないかという大疑問が浮上してくるんですよ。
というか、自分のやおい、BLに関する砂ひとつぶほどの違和感は、むしろやおい、BLに対してというより、それへの対立概念として「友情」が対峙されない状況にあるんですよね。


そうそう、最近ネット上で「馴れ合い」って言葉がありますよね。あれって「友情」を別の角度から相対化する言い回しですよね。
自分は「友情」概念がエンターテインメント上で疑問視されだしたのって、80年代中盤〜後半くらいからだと思っていて、それがどうしてなのかはわからない。それまでの「友情」概念そのものがだれかから押しつけられた幻想だったのかもしれない。


だけれども、それを見据えていないと見えてこなくなることがぜったいあるはずだと思う。
以前にも書いたけど、モーニング娘。ハロプロメンバーにかつての「男の友情」みたいなものを見いだす場合があることに、ヒントがあるような気がしてしょうがない。


「ヒント」などと思わせぶりなことを書いてもしょうがないので現時点での予想を書くと、おそらく日本が列強に抗していかなければならない団結精神〜戦中〜戦後の高度経済成長期における団結精神〜というのが、近視眼的に観た場合の「友情」の正体なのだろう。
だからこそ、広義のヤンキーものやHIPHOPがらみの映画などには「団結精神の現れ」として現在でも「友情」概念が残っている。


教科書的な解釈だと「個人主義」が確立されればされるほど、「友情」概念も無用になる。もちろん男女の「愛情」概念も無用になる。何もかもバラバラになってゆく。
さてどうすればいいんだろうね? おれは知らん。