今さらセカイ系について

「自分のことだけ考えてる、自分の周囲だけが世界だと思っている」っていうんじゃなくて、
「自分と世界とが安易に直結すると思っていて、その間に因果関係の説明がほとんどなく、それゆえに結果的には自分と世界が乖離する物語」だと、
自分は思っています。セカイ系ってのは。


ここで疑問なのは、なんでこういう物語が生まれたのかということ。
「世界との乖離」ということなら、すでに70年代後半から気分としてはあったわけでね。
ひとつ言えるのは、80年代には「だれかが何とかしてくれるだろう」という無根拠な安心感というのがあった。
それを揺さぶったのが「危険な話」などから端を発する「原発の恐さ」だったんだけども。


あれからどうなったのかなー。
それを探るには、いちおうセカイ系の元祖と言われているエヴァと同時期かそのちょっと前くらいの作品で「個と世界」がどのようにとらえられてきたかを見ていかなければならないんだろうね。
あ、自分は村上春樹セカイ系だとは思いませんよ。
まあ直系のご先祖ではあるかもしれないけど。
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読むと、「抑圧する者/される者」の構造がはっきりしている。それは「自分/世界」という二元論で世界をとらえてしまうセカイ系とは別の感覚だと思います。


あと象徴的なのはオウムだよなやっぱり。
彼らのやったことは何の現状認識もできておらず、最初っからつぶされることをそのまんまやってたし、
世界認識のジコチューなところも、「セカイ系」がオウムから生まれたとは思わないが共通の感覚から発しているんだろうな。


……どうもそれ以外が思い浮かばない。


ただ、こういうことは言えると思う。
巨大ロボットものにおいて、「少年と彼が登場するロボット」というのは、子とその父の関係を象徴しているという見方もできるが、
別のアプローチで行くと「大いなるご都合主義」であると言える。
もともとが「少年を社会参加させるための口実」ありきで巨大ロボットがある。
正太郎くんがもともとは「鉄人」抜きでも少年探偵としてバリバリやっていたことを思い出していただきたい。
では「少年探偵」が「少年探偵」たりうる根拠は何か。
……というと、そんなものはないのである。
せいぜい、読者が少年だから、などの物語上の要請でしかない。


巨大ロボットものの巨大ロボというのは、ぶっちゃけてしまえば読者たる「少年」たちの願望を充足させるためのアイテムでしかない。
そこに「エヴァ」が疑問を投げ込んでから、世の中おかしくなった。
逆に言えば、庵野秀明という人がどうしても「父越え」の物語にしたくなかった、その理由に関して、
作家性からだけ見たのでは「セカイ系」の祖としては見えにくくなる。


それよりも、一種の定型パターン(「ガンダム」などのリアルロボットですらこのパターンだった)であった巨大ロボットのお約束に、
どうしてもリアリティが感じられないと庵野監督が思った時代の空気とは何なのか?
……というのを考えると面白いかもしれない。


言い方を変えると、私がセカイ系が嫌いなのは、
「物語として用意されたご都合主義」に対して、それをわざわざ用意しておきながら、
「こんなご都合主義が通るわけないだろう」みたいなことを主張しているからなんだろうね。


このあたりは、アメコミ映画だとかブラッカイマーの映画だとかにありがちな「トラウマ掘り下げ」ともちょっと違う気がする。
日本人独特のバカ正直さというか……。


しかし、「ご都合主義が通らない」と思わせてしまう時代の空気とか気分ってのは何なのか? というのが、いまだにわからない。
戦後だけにしたって、もっとひどい時代はあっただろうに。


あ、そうそう、「範馬刃牙」で、今、刃牙を勇次郎と対等に戦えるレベルにしてやろうという試みがなされているでしょう。
あれ、無意識のうちに作者が「セカイ系的おとしどころ」を拒否していると考えられる。
まあ本当に刃牙が勇次郎と戦う展開になるかどうかはわからないけど、
「あらゆる格闘家の妄想の究極にある」かのような、
地上最強の存在だった勇次郎は、「バキ」あたりまでは何というか、「強さ」の象徴という印象があった。


たぶん、最初はあそこまで強くするつもりはなくて、「強さのインフレ」化によってあんなバケモノみたいになっちゃったんだとは思うけど、
そういう自分で構築した「強さの妄想」に対して、
今度は主人公の刃牙をそのレベルに引っ張り上げようとする、というのはとても面白い。
あの「巨大カマキリと戦うという妄想」っていうのは、それを象徴しているのかもしれん。


「意地でも敵対するものをぶつけさせてやろう」っていう気概があって、私は好きですね。それが成功するかどうかはわからないけど。