お笑い評論は可能か2

http://d.hatena.ne.jp/toronei/20070510/N


ダウンタウン麻生香太郎

あー、これ面白いですね。批評とか評論とかいう文脈関係なくても、ダウンタウンにちょっとでも興味ある人なら面白く感じるんじゃないかな。
これ見て最初に思ったのは、こういう場をよくつくったなあ、と。
こういう会話で成り立つトーク番組って、今ないんじゃないかな?
たとえば、似たようなシチュエーションに品川を入れたとしても、ウケを取ることしか考えないだろうし。
土田はもうちょっと話せるかもしれないけど。


「お笑い評論は可能か」という命題に立ったとき、「お笑い評論はお笑いサポーターではない」っていう立場からじゅうぶん可能ではあると思えてきた。
けれど、「評論は評論で自律しているんだ」っていうスタンスだと、芸人側から「自律してるんならやっぱりおれたちに関係ないね」っていう態度を取られることは、これからもあるんじゃないかと思います。
えーと、ちょっとややこしくなりますが(自分でややこしくしているんだが)、「自律した評論」は、素材となった作品をつくったクリエーターにいい影響を与えるかどうかも「結果的に」度外視されているので、「芸人が外野の意見を聞き入れるか」という話とはちょっと別のことになるんですよね。


で、仕切り直すと「芸人が外野の、信頼にたるべき意見を尊重するか」という問題になり、それは「お笑いサポーターとしての文章がどれだけ充実していくか」という、「評論」とは少し別の話になります。
さらに細かく分けると、観客へのナビと芸人へのナビとはまた別のものになりますしね。
「観客へのナビゲーションとしての、お笑いについてのテキスト」は、現状でもうできてると思うんですよね。
それが芸人側にも信用たるべきものなのか、ってことが、どうなのよってことになるわけで。


それと品川が「女の子が考えもなしに『つまんなーい』っていうのがムカつく」って言ったことへフォローしてみると、
私も、たいしてお笑いとか好きじゃない人が「面白い/つまんない」だけでバッサリ斬るの、イヤはイヤなんだよね。
で、そこを乗り越えてそういうこと言う人とコミニュケーションできるかというと、できませんよ。
これはもう仕方ない。


あるいは、けっこう好きな人同士でも、「お笑い」って他のジャンル以上にコミニュケーション取るのむずかしいと思うんですよね。


たとえば、アニメで「エヴァ」が好きな人嫌いな人、まあ最近だとハルヒでも「らき☆すた」でもいいんだけど、どこが好きでどこが嫌いかって、まあだいたいわかるし、そういう言葉ができてると思うんですよ。素人レベルでも。


ところが、たとえばHGが好きな人とそうでない人との間に「こいつとおれとではここが違う」っていうのを認めあって、納得するというところまで、まだ素人間で言葉ができていないんじゃないかと。


まあ具体的に言うと殊能将之、アンタどれだけHG嫌いなんだよというね(笑)(何年も前の話だけど)。
HGがものすごくベタな意味での「テレビ文化」からニッチなところを狙って出てきたお笑い芸人だっていうことくらい、たぶん高校生でもわかりますよ。
そんなのはわざわざけなさなくてもいいと思うし、けなすなら「低レベルの人たちが見るテレビ文化」っていうところから少し離れて論立てしないと、文章が面白くならないんですよねえ。
まあ、たぶんミステリに関してなら彼もあんなに嫌悪感むきだしな文章を書いたりはしないでしょう。
特定の専門ジャンルに詳しくて見識のある人が、いったん自分がたいして知らないことになると無責任なことを言ってもけっこう平気、っていうのはどこの世界にもあることだからなあ。


もちろん、このテキストの趣旨は彼を批判することではなくて、「HGなら嫌悪感むき出しで書いてもいいだろう」と思わせる雰囲気、HGは芸じゃなくてM-1は志向の芸だと、つい書かせてしまうことは何なのか、ってことなんですけどね。
私の胸に手を当てて考えてみると「エンタ」に同じようなことしてますね(笑)。エンタ、正視できないもん(笑)。


で、それは何かって考えると「ダウンタウン麻生香太郎」で松ちゃんが言った「みんなが面白いものって、本当は面白くないんですよ」という言葉につながっていきます。
もういろんなところで何度も何度も書き散らしているんだけど、サブ・カルチャーのものって「大衆に開かれているのに、追及していくと間口を狭くせざるを得なくなる、あるいは特定の人間しか相手にしたくないのに、大衆を相手にしないと商売にならない」という矛盾がずっとある、っていうことです。


考えなしにテキストを書くと、その矛盾のところでずっとひっかかって足踏みすることになります。まあそこを突破しようとすると「大衆的」としかいいようのないHG(エンタでもいいけど)をカルトに見る、というようなテキストの書き方もあるんですが。まああんまりそういうことやるとスノッブというか一種の倒錯になっちゃうんだけど。
でも実際、他のジャンルだとわりとそういうことはあるんだよね。ずーっと前に、みうらじゅん西城秀樹と対談して、「西城秀樹のロック性」みたいなものに注目してみたりとか。