「ハルヒ」は現代の「うる星」か(ネタバレあり)

(以下は小説「涼宮ハルヒの憂鬱」1冊だけを読んで書いてます。アニメは第一話しか見てません。)
ハルヒ うる星やつら」で検索すると、なるほど「ビューティフル・ドリーマー」との類似性を指摘する声が多いんですね。
まあそう言われればそうかとも思うけど、だからといって二つが同じであるはずがない。
それに、「ビューティフル・ドリーマー」ってあくまで番外編的な扱いだしね。


さて、では「うる星」本編との違いは何か。
私は「涼宮ハルヒの憂鬱」1冊だけ読んでその後のシリーズをまったく読んでいないので、その1冊だけを読んで思ったのはひと言で言って「ディスコミニュケーション」でしょう。


諸星あたるは、なんだっけ、「ものすごい不運の持ち主で、周囲をトラブルに巻き込んでしまう」ということは自覚しているわけですよね。そして「自覚しているのに脳天気に女の尻ばかり追いかけ回している」ところが面白かったんだけども、
涼宮ハルヒは、自分の行動に世界がどう影響を及ぼしているか、まったく知らないわけでしょ。
(その後の展開で、知るのかもしれないけど、1巻では知らない)


ハルヒに周囲が振り回されているのは、ハルヒが押しが強いからとか横暴だからとか、かわいいからとか言う部分もあるのだろうけど、ただひたすらに「ハルヒ自身が世界に関わっている」ということなわけですよね(まあ、キョンだけは違うのかもしれないけど)。


そこまで知ったら、すごく哀しくなって続きを読むのをやめました(まあ、私の読み方がダウナーすぎるんだろうけど)。
んだから、少なくとも「涼宮ハルヒの憂鬱」という単体のライトノベルにだけ言うならば、世界観自体がメタ構造になっているというより、それゆえに人と人との間ですれ違いが起こっているということが、私にとっては「うる星」との最大の違い。
「うる星」で、ラムやしのぶがあたるを追いかけ回しているのは、まあラムは婚約したという義理も多少あるのかもしれないけどあたるを愛しているからだし、あたるもまあヒドい仕打ちをしているけどその事実は知っているんだよね。


でも「ハルヒ」って、お互い見ている世界が違うなら違うままにお話が進んでいく。
だから、私としては「うる星」とは似ているかもしれないがぜんぜん違うと思う。


あと、ああいうワンマンな、横暴なヒロインっていうのは昔からいたけど、必ずぶつかるべき現実と同じ地平にいた(たとえそういう展開にならなくても前提としては)。
だけどハルヒの場合はワンマンに振るまえる、という前提が、「自分がなぜか世界全体を支えている」という本人も気づかない状況によって支えられている。
それは、水戸黄門が自分が印籠を持っていることを気づかないでそれを見せびらかして振る舞っているようなもので、
なんだかついていけませんでした。


この小説のファンの人にはごめんなさい。


ただし、「ハルヒは現実を見てない」みたいな、ある種の倫理観による批判というのはぜったいにおかしいとは思う。「ついていけない」とか「面白いと思えない」という評はできるが、それを倫理観によってあーだこーだ言うのは、ぜったいにおかしい。
(これはある種の「デスノート」評などにも言えるんだけど。)


たまたま見ちゃったサイトにそう書いてあった、っていうことなんだけどね。


なお、「うる星やつら」のフォーマットを利用したいちばんわかりやすい例は、
克・亜紀の「星くずパラダイス」でしょうね。同じ少年サンデーだし、たぶん狙っているでしょう。
天地無用!」もそうだし、
小説では京極堂のシリーズが「うる星」にたとえられることもありますね。


それと「ハルヒ」のメタ構造という観点では、急に思いついたけど京極堂シリーズと比較すると面白いかもしれません。