今、ボクに出来ることを考えて死にたい

二人ゴト」、高橋&新垣。
「2人になってからつまんない」っていう意見をネットで散見しますが、私は面白いと思うんだけどねえ。アイドルが語るって、水着DVDで「趣味は詩を書くこと」とか言ったり、ヴァーチャルデートとかいってカメラ目線で台本読んだりするのばっかりじゃないですか。
後は逆に、カウントダウンTVとかでけだるげにしゃべるミュージシャンとか。不思議ちゃんに見られたい子とか。
そういうんじゃないから面白いです。面白いって笑えるという意味じゃなくてですね、雰囲気が。


もう高橋愛のあまりの高橋愛っぷりに、ニヤリとしました。ホントに想像どおりの会話だったなぁ。いちおう言い訳しておきますが高橋愛は身体表現というかパフォーマンス能力はすごいあると思うんですよ。でもトークではとんでもない会話ストッパーだ!
後はヤンタンにゲストで出たときのさんまとの会話さえ聴ければ、私の高橋愛対外的トークコレクションはほぼ完璧に完成すると思います。このリズムをさんまがどうあやしているのかは興味があります。


高橋愛に「ガキ!」と言われるガキさんの屈辱!(笑) たぶん精神年齢は高橋の方が低いと思うなあ。
いいじゃないですか、仲良くて。二人ともすごくリラックスしてるね。





けっきょく、少し考えたけど他の日記と差別化をはかるには、自分が年寄りだということを利用するしかないようですな。


たとえば27時間テレビ評で言えば、
以前も書いたがあれは往年の、80年代の「楽しくなければテレビじゃない」的フジテレビ感を取り戻す、というコンセプトでありながら、やっぱり「めちゃイケ」スタッフの、2004年の番組だったということは言えると思う。


そういう解説をしていくしかない。


80年代のフジテレビを表現するなら、自己言及とパロディとニセモノ感覚とバブル気分。


そういう意味ではとんねるずを見られなかったのはやはり痛恨だったかな。


とんねるずは、真の意味での、おそらく空前絶後のニセモノ芸人。
もちろんホメ言葉ですが。


今のお笑いブームの中で、テレビに出る若手はびっくりするくらい基本に忠実。
いやそれは当然のことではあるんだけど。


しかし、とんねるずはコントという観点で言えば、ぜんぜん基本となるものがない。


コント赤信号とか、シティボーイズとか(たぶん、だけど)ラーメンズのような小劇団的な基本があるわけでなし。
逆に欽ちゃん的な基本があるわけでもない。


まあ基本がなってないグダグダな人たちは他にもテレビでいるけど、でもとんねるずのやっていることは不思議に芸として成立してる。


そして、彼らを生み出したのは明らかに80年代のフジテレビの雰囲気だった。


まあもともとは日本テレビの「お笑いスター誕生」出身なんだけど、彼らを見出したのはフジといっていいだろう。


とんねるずがブレイクしたのは素人女子大生を大勢起用した「オールナイトフジ」だった。
女子大生ととんねるずは、同じ観点の元に起用されていたと言っていいと思う。
オールナイトフジこそ、確信的に自己言及とパロディとニセモノ感覚とバブル気分を全面に出した番組だった。


それは戦後のどんづまりだった。
高度成長が終わり、新左翼運動が行き詰まりを見せ、消費社会にユートピアを見るような80年代前半的感覚すら幻想だったと思い知らされた後の、終末の光景だった。


だから本当は、フジテレビっていうのは終末から出発してる。
でもそれが伝統になっちゃった。面白いことに。


そういえば、いまいち元気がなくなってからも往年の「フジ気分」を引き継いでいたのはチノパンとアヤパンだったなあ。
80年代を知らない人には、「チノパン」という番組のふざけた感覚を連想してもらえればよい。


で、めちゃイケの話になる。
私は、実はここ数年のめちゃイケをよく知らない。
それは、「電波少年」的なセミドキュメンタリーだと思い込んでいたからだ。
まあ、現在の手法が最初からできていたのか、本当にセミドキュメンタリーだったのかはわからないが、少なくともセミドキュメンタリーとして見ても何ら問題はないと思う。
ヨモギダ」シリーズなどを見ているとそう思う。


そして、「めちゃイケ」にあって「ひょうきん族」とか「オールナイトフジ」にないものといったらそれは「感動」だ。
27時間テレビでもそうだったが、「感動」を入り込ませている。


とんねるず的方法論だと、「笑い」か「感動」か、どちらかの振り幅に触れるとどちらか一方はまったくおろそかになってしまう。
ところが「めちゃイケ」的方法だと、「笑い」でも「感動」でも「ドキュメンタリー」でも「仕込み」でも、あらゆる観点で視聴が可能だ。


とんねるずに「雨の西麻布」というヒット曲がある。
演歌のパロディである。
しかし、歌の中にこの曲がパロディである、と聞く者に思わせるサインはほとんどない。
(最後に「双子のリリーズ」と歌うくらい)
「雨の西麻布」がヒットした理由のひとつは、この歌がパロディ的側面と、マジ聞きしても、それがパロディであることに聞く者が気づかなくても楽曲として成立していることにあった。


しかし、80年代的感覚で言うとやはり「正解」はパロディなのである。
パロディだと「ワカッテルやつら」と、「そんなことを知らない、気づいていないマスの客層」という図式が明らかに存在する。
(まあ、この辺はとんねるずも時代を見て、「パロディの時代」が終わってからは「情けねえ」などでほとんど同じ方法をとりながら、「マジ聞き」の方へしれっとシフトさせるという小狡いことをやっているのだが)


対するに、「めちゃイケ」的手法には正解はない。
もっとも、「隠し芸大会」のときのモーニング娘。のテーブルクロス引き芸のように、完全なるパロディもあるが、振れ幅には余裕がある。


私の年齢的には60年代くらいまでにしかさかのぼれないのだが、ごく大雑把に図式化すると、
60年代(マジ)→70年代(マジ)→80年代(パロディ)→90年代以降(マジとパロディの混在)


……ということになる。
これはモーニング娘。にも同じ観点が適用できる。
モーニング娘。を初めて見たとき、だれもが「おニャン子じゃん」と思ったと思う。
正確には、おニャン子を直接のお手本にはしていないらしいが、そう見られることを否定していなかったことも事実。
一方で、「ASAYAN」というドキュメンタリーに近いセミドキュメンタリー番組から生まれたグループでもある。
初期「娘。」にあったグループ内での「しのぎあい」の構図は、完全に「マジ」なものだ。


一般人というのは、基本的にパロディとかネタを理解しない。本質的にはマジメなことが大好きなのだ。
だから、80年代が異常な時代で、現在ではどんなものも一方には必ず「マジ」に足を入れている。徹底的にふざけたものは嫌われる。


しかし、80年代を通過してその影響は送り手に隠せない。
お笑いを目指している人はだれでもそうだし、つんくにも秋元康の影響は濃厚である。


……というわけで、「めちゃイケ」と「モーニング娘。」の手が合うのも当然ということができる。
27時間テレビがらみで言えば、「めちゃイケ」的手法は、さんま(ひょうきん族)もとんねるず(オールナイトフジ)も、はねトびも、そして岡村のボクシング(感動)も包含するだけの懐を持っているということだ。


たとえば「ごっつええ感じ」は、どこまでホントか知らないがコントをやるためのバーターとして「チームファイト」などのお茶の間向けゲームコーナーを設けていたという。
つまり、コント部分とゲーム部分が乖離していた。
それはそれで伝説を生み出したのでいいんだけど。


しかし、「めちゃイケ」的な振り幅の広さは、いわばチームファイトとコント部分を渾然一体とさせたものと言えると思う。それは、悪い言い方をすればお笑いの奇形化ではある。視聴者のレンジを、他のメディアにはないほどに広くとっているからだ。


だが、テレビというメディアの特性、あまりにも幅広い層が見るということを考えれば、この上もなく正しいということになる。