だれか笑ってるやつがいるけど生きたい

人生というのが限りなく将棋やチェスなどのゲームに近いのか、あるいはチンチロリンのようなギャンブルに近いのかは議論の余地があるだろう。
昨今のアメリカの青春映画なんかはみごとに「将棋・チェス型」であり、60年代の日本の青春映画(かやまゆうぞうとかが出ない暗いやつ)はチンチロリン的人生観であるとおおざっぱにくくることができる。


前者はストーリーテリングにおいて、巧妙に「ギャンブル的要素、偶然的要素」を導入することによって人生のゲーム性、別の言い方をすれば因果律を強調する。


後者はギャンブル的、偶然的要素の多い人生に因果律を持たせようとして、新左翼的世界観を導入したりもした(マルクス主義はめちゃくちゃおおざっぱに言って、資本家と労働者という、労働者側にとって非合理な関係性を暴き立てる「世界観の構築」に意味があった)。


まあ逆に右翼的世界観というのもあるんだけど。


ゲームにせよギャンブルにせよ、そこに論理性を求めるのはその人間が「勝者」ではないからだ。敗者だという意味ではない。勝ちか負けかが不確定だから、不安で不安で理屈を導入するのである。
映画を見ていると、その意味づけが人生のすべてのように思えてくるがそうではない。


そうしたルールからはみ出している人間が常にいる。それは絶対的な勝者。
本当の勝ち組は、自分が勝ち組だなどと意識しないものだ。
逆に言えば、勝ち組か負け組かは敗者の存在によって決まるのである。


たとえば貧しいながらも平和な村に、とつぜん大資本が投入されて貧富の格差が生じたとき、初めてそこに勝者と敗者が生まれるように。


じゃあ勝ちと負けを分けるのは一体だれだ?
そう、どこかに勝敗そのものを笑っているやつが存在するのだ。
我々の日々の営みに、関係あるにしろ、ないにしろ。


そのみきわめがわからんかぎり、萌えとかセカイ系とかぬかしてると足下を救われると思いました。


それでまあ娘。系テキストだと、ここで結びとして「辻ちゃんはそんなことは考えていないだろう。ののたんは奇跡!」ということになっちゃうんだけど、それはどうなのか。


我々が考えるべきは、むしろユウキの人生観であろう。
そう、まるで芸能界という伏魔殿との契約書を、ニヤニヤ笑って破り捨てたような、あの男だ。


ごまきになるより、ユウキになりたい。