「客が悪い」という言い分は、送り手がきってはならない最後のカード

東京のテレビ出たいねん 大阪笑考(12) 漫才が迎えた大きな曲がり角 カトゆー家断絶


「テレビが芸を殺した」っていうのは、断続的に聞かされる意見なんだけど、能、狂言、落語などあくまで舞台が中心の舞台芸、あるいはマリックのように大ブームを起こす人もあるけど基本的には舞台芸であるマジックはともかく、「漫才」でこの言葉を聞くと正直「テレビをさんざん利用しておいて、なんだよ」って思います。


上記の連載記事に詳しいけど、80年代に起こった漫才ブームは漫才とテレビの関係を徹底的に変えてしまった。
しかしその張本人の一人である横沢さんはやっぱりタヌキだよ。この連載記事の中で、「キャラクター中心の『ひょうきん族』で笑いを破壊してしまった責任は自分にもあるが、今は本物が必要な時代。しかし本物を知る人が少なくなった」みたいなことを言っていて、あまりにもふざけてる。


とにかくこの記事には東京とか全国区、テレビといったものに対するコンプレックスが渦巻いている。それにウンザリさせられる。じゃあ東京、テレビ、バラエティといったものに、一般的に芸を殺したと言われているものをひとつでも利用しないで今の関西芸人の隆盛があったのか。ないでしょう。
まあ新聞記事的なものなんで、それを考察しろとはいわない。勝手にコンプレックスしてろという気持ちもある。


しかし、これだけは言える。とにかくいちばん中心になって問題になってるのはテレビでしょう。そしてそのもっとも浅い、大人数の視聴者。
本当はそいつらに呪詛の言葉を吐きかけたいのに、お客さんだからできないっていうことでしょう。そこら辺の言葉をむずかしい用語に言い換えているだけ。


テレビが気にくわないならケツをまくる、あるいは吉本興業ほどの巨大ブランドだったら、「ここのエリアはテレビには関係ありませんよ、テレビのプロデューサーや視聴者に勝手なことは言わせませんよ」っていうような、あえてテレビには出ない、出させない、舞台芸の神髄みたいな芸人を育てるとかさ、そういうことだってできるはず。
でもやらないんだよね、儲からないから。


「80年代の漫才ブーム産業革命みたいなもの」という言葉がこの連載記事に出てくる。けだし名言。そして、テレビというシステムを折り込んでビジネスをやっている以上、ブームが来ようが来まいがテレビの呪縛からは逃れられないし、才能のある芸人はどんどん「テレビ的」になっていくから、この記事が理想とする芸人なんて育つわけがないんだよ。


それと、この記事ではあくまでも関西芸人が上で関東が下、という中華思想が言外に見えているんだけど、こうした「テレビと芸人のジレンマ」をもっとも明確に体現しているのは関東の「とんねるず」だ、ということに気づかないかぎり、この記事を書いている人には見えるべきものは見えてこないと思う。


いつまでもいつまでも、東京、テレビ、メジャー、といったものを恨むだけで終わっちゃうよきっと。