ネットに浮遊する「論壇的」な文章があんまり好きじゃない

・昨日の文章は
かなり最悪だった。肩凝りがひどく、気分的にも最悪の状態で書いてしまったからだ。


私は、ネットに浮遊する「論壇的」な文章があんまり好きじゃない。ネット上での好きじゃない文章のタイプは多いが、もっとも好きじゃないのが「論壇調」の文章なのだ。


もちろん、中には面白いもの、ためになるものもある。厳密に「論壇調」とは言いがたいが、社会評論として面白い「スタンダード 反社会学講座http://mazzan.at.infoseek.co.jp/は本にもなった。
しかし大半は好きじゃない。これはもう、自己分析したがわからない。食べ物の好き嫌いに近いとでも思ってもらってかまわない。
いやいやいや、冷静になろう自分。深呼吸して。はあはあ。
いくつかわかっていることを書いておこう。


・すべてのテキストを「論壇的」なものにおとしこもうとする態度。
何が「論壇的か」というのもまた説明がメンドクサイのだが、「世界をすべて政治的・思想的なもののあらわれとして説明する態度」とでもいうのか。実は私は、この態度、スタンスはまだまだ有効だと思っているが、とにかくたまたま行き当たったネット上のこのテのテキストで面白いものよりもつまらないものの方が多かったので、信用ならなくなっている。
まあ、私もすべてのテキストを読み尽くしたわけではないので、恋愛・結婚において「男運(女運)が悪い人」のような立場であると思ってください。


そういう態度が好きじゃないからして、私が面白いと思っている文筆家やライターの人には、その辺のコトには関わらないでもらいたいとすら思ってしまっている。


・オタクVSそうでないもの、という対立項をセッティングする。
最近の「論壇系」なテキストに多い。「オタクにまつわる論争」と聞くと、東浩紀斉藤環などの言説をめぐる論争だと思う人もいるかもしれないが、あそこら辺はまだいい。好みの問題だが私は少なくとも不愉快ではない。最終的には、みんながアニメやマンガが好きだと確認できればいいじゃねえか的なことさえ思っている(論争している人たちはそんなこと思っていないかもしれないが)。


とにかく、議論は噛み合っているし、何といってもぶっちゃけオタク論争というのは「オタク」というものを設定したゲームであるとすら思っているので、ゲームはゲームとして楽しめばいい。


しかし、オタクVSそうでないもの、というセッティングの論争は、私がもっとも不愉快で、興味がなく、役に立たず、ゲームとしても面白くないと思うものだ。
ものすごく小さな世界でのことだと思うが、少し前に「80年代再評価」みたいな論調があった。
しかし、そこでの論争はけっきょくは「80年代のサブカルチャーにおいて、いったいどんな人種がヘゲモニーを握っていたか」というため息がでるほどクダラナイ論争であった。


なぜくだらないと思うか。まず「オタク的なもの」VS「新人類的なもの」という、知らない人にはどうでもいい極致である図式があることが一点。
なぜこの図式がくだらないか。こんなもの、首都圏の一部の人たちの「どっちがセンスがあるか」というだけのことだからだ。
おすぎだかピーコだかドン小西だかのファッション・チェックと変わらないのである。


もうひとつの図式として、「新人類的なもの」をいかにもせまいくくりだと感じたのか、「オタク的なもの」と、もっと不定型な「そうでないもの」とを対立させる場合もある。
この不定形な「そうでないもの」は、80年代の若者の中でも、とくにその上のおにいさんおねえさんから左翼的な思想を受け継いだ人であったり、右翼的な思想を受け継いだ人であったり、何も受け継いでいない人だったりする。いわば「論壇的」な方法論を以前からそのまま引き継いできた人々だと言える。
そのこと自体は悪いことだとは思わないが、それではなぜ「オタク」を目のカタキにするのだろうか? 「論壇」系の人々ならもっと他にやるべきことはあるんじゃないか? 批判すべきターゲットはいるんじゃないか?


しかも、このテのオタクバッシングというのは、それ以前の「オトナのくせにアニメやマンガを見ている」とか「気持ち悪い」といった批判と同じくらいつまらないし、始末が悪い。
だって同世代か、その下の世代の意趣返しだぜ。「ジャパニメーションが世界に」とか「OLがチョコエッグを集めてる」とか(もうそれも古い話だが)、そういうのが気にくわなくて気にくわなくてしょうがない人たち。


それこそ知らないよそんなの。


たとえば、「オタク」のきれい事的側面に、オタク内部からの批判があることはある。具体的には大塚英志とかが問題提議している。でも、そこら辺はいろいろひっかぶってきた人だからその資格はあると思うし、提議されている問題だって意味がある。


でも、論壇的でかつ「オタクがオタクのくせに幅をきかせてる」的な論調というのは、たとえば理系の大学に行って地味に働いて、たまたま見合いで美人の嫁さんと結婚することになった同級生に、元不良が難癖を付けに行くようなもの。実にみっともない。


そういう図式にとらわれてるから、いつまで経っても橋本治が一種のジョーカー的存在としてもてはやされることになる。橋本治に変わる人いないでしょ。他には変わる人がいても。


・ひたすらにいばりすぎている文章
社会評論というのは、とりあえずいばってみせないといけないらしい。いばっていない文章を見たことがない。ここら辺はいまだに謎だ。まあ宮台真司宮崎哲弥はそんなにいばっていないかな。
でも宮崎哲弥は、自分が昔グレていたことを自慢するからな〜。


まあ何にしても、この「いばり文体」を乗り越えないかぎり、論壇に明日はない。いや、明日が来たって「明日は来なかった」と言いきってやろう。
たとえば「いばり」でも、「自分たちはもはや必要とされていないんじゃないか」というところから出発している場合はそれもまたひとつのポーズとなるからいい。確か浅羽通明はそういうスタンスで知識人をとらえていたはず。師匠筋の呉智英が「封建主義者」と名乗っていたのもそれに近い、冗談まじりのことだろうと思うが。
(スタンダード 反社会学講座のトボケ文体も、村崎百郎の「鬼畜」というスタンスも、似たようなところにある。一種の照れ隠しというか。こんなこと書いたら、少なくとも村崎百郎には怒られるかバカにされるかするかもしれないけど。)


しかし、どうも真剣に自分以外はぜんぶバカで、世の中の人は自分がわかっていることを何も知らないと思っている人がいるらしい。
もう、本当に、最悪だ。そういう人の文章を読むのは。
本当に本当に最悪だ。
本当に本当に本当に最悪だ。


もうやめよう、こんな話は!
ハロプロの話をしよう。
ハロプロのほとんどは、そんなクサクサした気分を払拭するためにある。