21世紀のアイドル論

以前にも書いたが、通常のアイドル論というのは「80年代論」であるともいえる。
多くのアイドル論客にとっては、アイドルというのはすでに終わった存在なのだ。80年代とともにアイドルは心中したのだ。


一方、「モーニング娘。」は、当初楽曲ファンからのアプローチが凄まじかった記憶がある。
その点、確かにそれまでのアイドルとは違っていた。
そもそも、娘。を通常の「アイドル」としてとらえていいかどうかというとまどいも、受け手には少しあった。


現時点で、はっきり言って娘。は長期低落傾向にあると思う。なっち卒業あたりまでは「国民的アイドルモーニング娘。に、自分はこうアプローチする」ということでテキストは自分の存在を主張できた。
(「アイドル」を80年代文化として心中させたがったり、ネットアイドルや地下アイドルをこそ正統派だと見過ぎるあまり、返す刀で今、テレビの中で歌っているアイドルを見逃すなどは論外である。もちろん、その特定のアイドルがマイナーだろうがメジャーだろうが好きなものは好き、という姿勢は正しいと思うけど。)


今後は、タレントとしての「ワン・オブ・ゼム」にすぎない娘。にどうアプローチしていくかという視点が、絶対必要になるだろう。


そう感じたのは「涙が止まらない放課後」を見たからで、単にダメになるのなら無視したり語らなければいいだけだが、この歌には確実に送り手の「意志」を感じるからだ。
正直、この1年、娘。の曲で手放しで「イイ」と思ったことはないが、ただ毎回のスタッフワークには地力のようなものを感じる。


よくアイドルのやることを侮蔑的に「学芸会」と呼ぶことがあるが(そして「涙が止まらない放課後」もたぶんそんな批判を受けるだろう)、アイドルに関してはこの侮蔑言葉は当てはまらない。アイドルってのは生まれたときから「学芸会」だから。


そして、この「学芸会でも特定アイドルを愛する」というのは、アニメやゲームなどの「作品はダメでもキャラ萌えに走る」ということとほとんど同義であり、前者の「学芸会」の歴史の方が圧倒的に長いことなどについても、だれも言及しないし、私の話もだれも聞いてくれないんだよなあ。


まあこうやって泣き言書くと怒られちゃいそうだけど。


なんにしろ、広義の「アイドル論」は、いったん小泉今日子森高千里みたいな自己言及アイドルからは一度離れた方がいい。
21世紀のアイドル論は、そこから生まれると思う。