小学生の死生観

2割が「死んでも生き返る」=「何となく」理由に−小中高生の意識調査
ちょっと信じられない。ウソだと思いたい。
こういった調査に関しては、以下の本を読むとその妥当性に関して慎重にならざるを得ないが、同時に私にはその妥当性を判断する知識もないわけである。
だから、本当のところはよくわかりません。

「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ (文春新書)

「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ (文春新書)


まさか、死んだ人間が生き返ると子供たちが信じているとは、とうてい考えられない。信じたくない、という気持ちがある。まあ、私の願望ですね。


さて、現代の子供たちが「人間は死んだら生き返ることもある」と言った場合、それを否定の方向で、仮説を立ててみたい。


まず考えられるのが、「世界の不思議ばなし」とか「信じられない奇跡」みたいな、どちらかというとオドロ系の読み物の影響。私も、一度心臓が止まった人間が棺桶に入れられてその中で蘇生したとか、そんな話は小さい頃によく聞いた。
このうえ、それほど死が身近にない場合、軽々しく「死んでも生き返る」と言ってしまうのではないか。
ただし、その「蘇生」がひんぱんに起こることだとは考えていないのではないか。いや、私はむしろそう思いたい。


もうひとつの考えは、我々の考える死生観、死や生の表現とは違う次元で子供たちは死を意識しているのではないかということだ。
むしろ、我々よりも世代が前の、「ご先祖様は亡くなっても、裏の山に霊となって見守ってくれている」というような感覚で「生き返る」と言っているのではないかという仮説を、もうひとつ立ててみる。


というのは、現在の大人が、「死」に関して「無」だとしか言えないという状況があるからだ。
「死」の説明が貧困というか、一方では「無」、一方ではあやしげなカルト宗教の説明、というふうに、両極端になっているということである。
そういう、いわば死生観が引き裂かれた状況で、「死者とともに生きる」、すなわちご先祖様を認識して生きるとか、死後の世界をフィクションと感じつつも、「悪いことをしたら地獄に堕ちるかもしれない」と何となく考えながら生きるとか、そういうことができなくなりつつあり、そのような状況の中で「死」というよりは「生」以外のものに対する説明として「生き返る」という言葉を使ってしまっているのではないか。


まあ、本当にただの仮説なんだけどね。


ただ、自分でここまで書いてナンだが、この仮説をくつがえす事実はある。
以前、頭のおかしなオバサンが、自分が救世主かなんかだと思いこみ、病死した遺体を生き返らせるといってミイラ化してほっぽっておいたために捕まった事件があった。
あの「定説がどうの」と言っていたらいふすぺーすとかいう団体のおっさんも、似たような発想でした。


宗教には疎いんですが、普通、「死者を生き返らせる」のが宗教ではないでしょう?
死を受け入れざるを得なくなって、哀しくて、辛くて、それを乗り越えるための宗教じゃないんですかね。
つまり、死を認めて、それに向き合うのが宗教じゃないのかなあ。
まあ、エジプトのミイラとかになっちゃうとよく知らないんだけど。


でも、少なくとも仏教とかキリスト教とかはそうでしょう。


それが「死者を生き返らせる」という、ごく一部のカルト宗教の発想は、中途半端に科学的な思考を取り入れていると思う。
肉体の蘇生=死者の蘇生=死者との共生、という考え方は、正直頭悪いと思うんですよねえ。
それと、肉体←→精神、という対立項みたいなものを疑似科学的にとらえていて、実に中途半端だと思う。


実際、いいオトナでもそういう考えの人はいますから、子供はどうなのかな……というのが少し心配な点です。