ナンシー関の呪縛

なんか、最近やっとナンシー関の呪縛から抜け出せそう。
ナンシー関の呪縛、それは「テレビという枠内でしかものを見ない」ということ。
それは、ナンシー関の見識、ノーブルさであったと思う。逆に言えば「テレビの外のことには口を出さない」ということだからだ。
ナンシー関自身はテレビ外のことや、テレビの内幕などの画面に出ないことも知っていたとは思うんだけど、それを出さないことが彼女の見識だった。
で、テレビ批評というのは彼女がほとんど席巻してしまっていて、シーンそのものが存在しなかった。
他にどうっしようもない人がいてコラムとか書いてたんだけどダメだったし、泉麻人はテレビだけやってるヒトじゃなかったし。


ナンシー関が提示した問題は大きいが、反面、弊害もあると思う。
それは、「『テレビ』という枠で切り出した世界」のみを論じるというのではなく、
「『テレビ』という枠で切り出した世界」だけが存在し、他はないと思ってしまうような状況を、結果的につくってしまったことだ。


たとえば、「たま」(2003年10月に解散)と言えば、テレビ的には「消えたグループ」である。
よく、バラエティなどでも「坊主頭にランニングシャツ」という人が出てくると「『たま』で太鼓叩いてた人?」などと言われる。
「あの人は今」みたいな存在である。
ところが、3年くらい前かな、たまたま何かを見に行ったときに、別にたま目的ではなかったけど「たま」が出てきて、演奏した。
すごく良かった。感動した。


まあもちろん、中途半端なナゴムっ子であった私としては「イカ天」がなくなって以降、世間ほど「たま」を消えたとは思っていなかったし、一過性のグループだとも思っていなかったが、それでも生演奏を見て感動した。
そのとき、そういうテレビのイメージ以外の状況を把握しておくことは、案外重要だと思ったのである。


もっとも、今の若い人の方がその辺のことは承知しているかもしれない。ネットが存在する前より、わかっている人は情報を多方面から受け取るから。
昔はテレビという一方通行的なメディアが絶対的だったから、わからない人はいまだにわかってない。


「キャラ」という概念もそうで、まあ「娘。」の好きな人はじゅうじゅう承知だと思うけど、「キャラ」というのは特定の「場」があってこそそこに結ばれる点のようなもので、当然絶対的なものではない。
逆に言えば、テレビで他人のキャラを決定する権利を持っている人はそうとう「強い」ということにもなるし、自分のキャラを開拓した人がテレビでは強いということである。


ところが、これも当然だが「キャラ」の確立とその人の他方面での妥当性はまったく別のものなのである。
この辺、テレビタレントと言われる人はこの「キャラ」がテレビとテレビ以外の「場」とで限りなく近づいていくだろうし、活動の場がテレビ外に比重がある場合は、必ずしもイコールではない。
まあ、これも「娘。」ファンには釈迦に説法ですね。


面倒なのが「文化人」というやつで、テレビでは便利に使い回されるため、その人の専門領域での実績が皆目分からないということも多い。
吉村なんとかさんがピラミッドの研究分野でどの程度の人間なのかとか、そんなのはテレビを見ているだけではサッパリわからないのである。
逆に、吉村なんとかさんの「テレビ的な立ち位置」というのはテレビを見れば把握可能ではある。


まあ、三十過ぎたらテレビを見ていてもテレビ以外のことに意識が行かないといけないと思う。
「何が」テレビには出てこないのかを探るべきだ。
「べきだ」とか言うとなんだか絶対的なことみたいに思えちゃうけど。