オタクとサブカルの違い

http://d.hatena.ne.jp/toronei/20050321/F

まあ、年齢的にここら辺は意見がそうとう分かれると思います。
私はときどき、意識して「広義のサブカルチャー」という言葉を使うけど、これはそういうオタク/サブカルという対立概念が人によって違うため、誤解を避ける意味もある。
サブカル」という言葉は、すでに80年代後半には欧米で使う意味とは違うずれ方をしていたと思うし。
その頃より、さらに意味が多様化していると思う。


実はサブカルっつっても、メイン/サブっていう対立項で分かっている人ってあんまりいないと思う。まずメイン/サブっていう対立って何か、っていうことから整理しないといけないんだけどこの辺はわかりません(と、あっさり通過)。


で、感覚的にはサブカルというのは、欧米主導であるということよりも、60〜70年代的な時代の雰囲気、ものすごく大ざっぱに言えば全共闘世代的感覚というか、そういう変革意識が底流に流れているかどうかが重要で、それが「サブカル」にまといつく「雰囲気」を規定していると思う。


たとえば、これはあくまで私個人の時代感覚だけど、80年代中盤に「おたく」っていうのが批判的に指摘されたのは、ソレが「変革を意識しない」というふうにみなされたからだと思う。
この辺は、ちょっとややこしい。それは、現在「おたく」を立場にしている論者が必ずしも「現状維持」とか「変化なんて起こらなくていい」という文脈でものを言っていないから。だから、より正確に言うには「サブカル側から『変革を求めていない』と『みなされた』人が、一時期『おたくと言われた』」ということになると思う。


今みたいにオタク/サブカルという概念が多様化してややこしいことになったのは90年代初頭くらいからで、わかりやすいのは雑誌「TV Bros.」の変化だと思う。
恐竜戦隊ジュウレンジャー」(1992)の特集を組んでいたときは、完全にオタクを小馬鹿にしたトーンだったと記憶する。「こういうのも『あえて』ありなんじゃない?」という雰囲気。


連載では石野卓球が「道楽ダイアリー」というコラムを連載(ネットで検索しても正確な連載の年月がわからなかった)。
コレは、音楽の話はいっさいナシでランダムにそのときのトピックを取り上げるというモノだけど、「仮面ライダーの全話LD-BOXを買った」っていう話が「半ばギャグとして」書かれていたことが象徴的。
この連載は、他のもぜんぶそう。


で、その後卓球は音楽中心のコラムに変更して連載を続け、「洗脳社会」を出す前か直後くらいの岡田斗司夫氏がオタクの話題中心のコラムを始めてる。
こっちも、「オタクとは何かをそうでない人に説明する」というのが主旨の連載だったから、「オタクのすごい人(ものすごいコレクションを持ってる人とか、くだらないことに一生懸命になってしまう人とか)を面白おかしく書くというのは「道楽ダイアリー」と変わらないけど、「オタク史」のような歴史観というか文脈をふまえてのものだった。
その後、ブロスは親「オタク」に流れていって、他の特集とかコラムの部分でもなんとなく底流にそういう雰囲気が流れ出す。編集長が変わったのか何なのかわかんないけど、「ジュウレンジャーのときは小馬鹿にしてたクセに……」とか思ったものだった。


何が言いたいかというと「あえて○○する」の「あえて感」みたいなニュアンスが、オタクとサブカルって違っていて、最終的にどこかに新左翼的なというか、それを否定するにしても肯定するにしても、60年代からの流れを引きずっているのがサブカル、という印象が私はする。
オタクは、別にそこら辺関係ないというか。


たとえば「輝かしく機械化された未来像」とか、「大阪万博」とかは、かつての(今から20年くらい前の)サブカル的考えでは料理できなかったと思うんですよ。高度成長とか機械文明、物質文明を疑問視する、というのが考えの底流にあったから。
まあ、個人で好きな人はいたかもしれないけど、10年ひと昔にしたって1980年の段階で大阪万博って完全にサブカル方面では忘れられたふりしてたと思うし。さらに10年経って90年の時点でもそうだったから。っつーか90年頃というと広瀬隆の「危険な話」が出て3年。反原発問題が注目されて以降のことであって。万博とか話題に出るわけない。


で、私の感覚からするとテレビに出てくるお笑い芸人で「オタクかサブカルか」という区別をするとどうなるかというと、今出てる人たちってもうほとんどそういう区別ないと思うんですよね。バッファロー吾郎ケンコバは勉強不足でわからないんだけど、かつて「サブカル的芸人」というと小劇場系というか小劇団を意識した感じの人が多かった。あくまで私のイメージでは。


たとえばかつてのタモリコント赤信号、九十九一、イッセー尾形なんかはサブカルっぽかったし、「そのテの雑誌」に出ても違和感がなかった(古い例ですいません。20年前の例だ)。まあ、コント赤信号は比較的メジャーっぽい印象だけど。後はまあ、微妙だけど爆笑問題とか。
(ここにキッドを入れるとまた話がややこしくなるんだけど。)


今は、もう前も書きましたがダウンタウンがその辺の壁を取り払っちゃったから、あんまり「サブカル芸人」っていう感じの人、いないんだよね。本人は変わってないかもしれないけど、周囲が変わっちゃったから。
私の知るかぎりでは場合によっては「鉄拳」、「ポカスカジャン」、「猫ひろし」、「星野卓也」、「陣内智則」、あと大川興業系の人たちとか、「テレビに出ても舞台っぽい匂いのある人たち」が「サブカルっぽい」と捉えられていたかもしれないと思うけど、もはや友近にすら(周囲の雰囲気との比較で)その匂いはないし。レイザーラモン住谷だって、ゴールデンに出てるでしょう。


逆に言うと、「クイックジャパン」に笑い飯とか南キャンとかが出るのが、もはや倒錯ですよね。たぶん、M-1に出るような芸人はみんな、他の週刊誌にインタビュー記事が載っても現在何の違和感もない。実際に載るかどうかは別にしても、とりあえず違和感がないということが重要。


だからまあ話は飛ぶが、ネットの存在によって「雑誌消滅論」があるけど、情報の価値がものすごい低くなってることは確か(雑誌が完全になくなるとは思っていませんが)。
ネット云々以前に、だれもかれもが情報感度がよくなっちゃってるから、ここでとりあげなくてもあそこがとりあげるだろう、っていう事態になって来てるんで。


もうさあ、「こんなイイもの知ってるの、オレだけだろう」ってほとんど存在しないから。
話を戻すと「こういうのがオタク、こういうのがサブカル」っていうのが「外国かぶれかどうか」っていうことは私にとってほとんど意味はなくて、「社会変革を希望するか、ないしはそのスタンスはどこにあるか」ということがいちばん問題なんじゃないかな。
で、それを問題にするかどうかも、それこそ人それぞれになってきてる(昔はけっこう人生観の問題としてつきつけられただろうけど)から、「問題にしたい人だけ問題にしたい」というふうになってきてる、というコトで。