例の東大生が飲酒強要したとか何とかをブログに書いたという話

確か、リンクしちゃうと自動的にトラックバックになっちゃうのでしませんが。
削除された元テキストを見てないと、何とも言えないんだけども。
とか言いつつ、書くけど。


あびる騒動のときも思ったんだけど、正義というか正しさの「位置」みたいなのが変わってきているなあ、と。
それがいい悪いではなくて、事実として。
で、感触としては、我々も含めた上の世代の人間が寄ってたかっていろんな価値基準をぶっ壊した、その上に現在の、ある種の正義感が成り立っているのではないかと。
10万HITのブログだから、当然やっかみのいやがらせみたいなのもあるんだろうけど、どうもそれだけじゃない気がする。


批判してる人は「嫌飲権」、「アルハラ」、「ある種のコミュニティ内での慣習」など、ある個体としての固さを備えたというか、そんな単語でザクザク書いてる感がある(もちろんそうでない人もいるが)。
これって先行世代が、「セクハラ」や「嫌煙権」といった「単語」で物事に対して問題定義したことが、果たして良かったのか悪かったのかというのがきちんと決着つかないまま、現在そのまんまの状態で放り出されていることの結果だと思う。
繰り返すけど、それが私はいいとか悪いとかはここで断じることはできない。
たとえば、たぶん山本夏彦なんかは否定してたわけでしょそういうのを。よく知らないけど。
でも、私は否定しているわけではないんで。


もっと言ってしまえば、「あるコミュニティ内で、道義的にどうかと思われている慣習に従うか否か」っていう問題は、


ムラ社会的なものや徒弟制度/「都市」的感覚や平等主義と効率のバランスの上に成り立っている学校教育


という対立構造の中で、ちゃんとした結論って出てないですよね。
みんなが、個別具体的に対処してきただけで。


どうすんだろうなー。価値基準を壊した先行世代は。これってブログの管理人や抗議者の問題というより、私には先人の問題という気がする。


ただ、これだけは言えると思うのは、旧来のなあなあ的人間関係を完全否定することは、たぶんぜったいできないということ。いやもしかしたら新新人類みたいな人たちが出てきてそういうのを実現させる可能性もあるけど、どうなのかなあ。
地方の凶悪事件とか見ると、そういうなあなあ主義がいい意味で機能していたのがどんどん無効化している気はするんだけど。
そして、それは今に始まったことじゃなくて、たぶん戦後から継続して起こっていることなんだろうけどね。


それと、このような問題に興味のある人たちっていうのは、教養のある人たち、教養に価値を置く人たちでしょう。
で、「教養」というのは、一見学校教育はあるし、図書館に行けば自由に本が読めるしといったふうにいかにも「自由」という感じがするけど、その「教養」を共通了解として成立させているものは何か、というと、それはやっぱりコミュニティであり、コミュニティである以上、なあなあもあれば理不尽もある、ということはまぬがれないとは思う。
「教養」に、本質的にそういういやらしさがあると思うんだよね。