今、ナンシー関がおよぼした影響について考える

ふと思いついたので、ちょっとナンシー関について書いてみる。


ナンシー関を越えないかぎり、テレビ評に明日はない。
急逝して数年経ってもまだ影響力の衰えないナンシー関について、軽く考えてみたいのである。


ナンシー関の登場時というのは、「ライター」ではなくて「コラムニスト」が憧れられた時代だった。それはどういうことかというと「自分の感性だけでものごとを斬れる、それが芸として評価される」ということだったと思います。
本人たちはそれなりの才能と努力を持っていたが、それに憧れる当時の若者たちには「面倒なことをしなくても自分の感性だけでモノが書ける」というものぐさな根性があったかもしれない。


同時期に似たようなスタンスだった人には、中森明夫泉麻人カーツ佐藤えのきどいちろう山崎浩一いとうせいこうみうらじゅんまついなつき町山広美などがいる。少し年齢は上ですが中野翠なんかもそうかな。中尊寺ゆつこもそうだったかもしれない。
もちろん、彼らは憧れられる側の存在でした。
この中で、ナンシー関にいちばん近接した仕事をしてたのは泉麻人だったんじゃないか。TVガイドの編集者出身だし。
でも、泉麻人は自分が子供の頃の懐かしネタとか、そっち方面に行ったらしく「テレビ評でどうだったか」っていうのはみんな忘れつつある。


他の人々も、みんなそれぞれいろんなところに行ってしまった。


そんな中にあって、なぜ過剰なまでにナンシー関がテレビ評において評価されているかというと、私の考えを箇条書きすると、以下のようになる。


・文体が簡潔で、確立されている。
・ほとんどテレビの画面を見ただけで感想を書いている。取材をしたり、「実は内幕はこうなってるんだけど……」と言った書き方をほとんどしない。
・テレビに映し出される芸能界を「場」ととらえ、それをテレビ内の「世間」としてとらえることが、一般人の自分の生活圏内の「世間」と相似形になって見られるという視点を提示した。
・だから、「芸」という観点で見ればほとんど論評に値しないバラドルや中山ヒデなどの「よくわからないが、テレビに出ている人」の論評を可能にした。


過去にも、「歌謡界」とか「映画界」という観点から論評する人はいたと思います。芸ごとが好きでテレビ評を書いていた人たちですね。
シャンソンが好きだという噂の福岡翼はそういうスタンスなんでしょうね。
ところが、そういう観点というのは、「アイドルは学芸会」、「二枚目俳優は大根」、「ホームドラマでは食事のシーンばかり」、「ドラマより映画の方が上」、「芸人は本分である芸ごとさえできていればよろしい」といったふうに、否定的な言葉しか出てこない。


しかし、80年代も後半に入ると一部の視聴者にはそれでは飽き足らない雰囲気があったことも確かで、そこに出てきたのが「TVBros.」だった。
ナンシー関がけっこう書いていたこの雑誌、テレビから送り出されてくるものをそのまま受け止めているお行儀のいい雑誌とは違ってた。
ものすごく大ざっぱに言えば「テレビを、我々が生活しているのと似ていて、しかし違う『世間』としてとらえる雑誌」だった。


そして、そういう観点こそが、「なんだかよくわからないけどテレビに出ている人」の論評を可能にした。
要はその人がテレビに出ていいかいけないかは、テレビ内部の(お茶の間とつながった)「世間」が決定しているのだ。


ナンシー関(というかTVBros.)登場までは、ほとんどの場合テレビのつくり手から一方的に送り出されてくるものに対し、視聴者は黙って受け止めるか、あるいは見ないかの判断しかなかった。
だが、「ナンシー的観点」で初めて、心のひだひだというか「何となく納得行かないこと」といった細かい部分までを表明していいんだ、という雰囲気が生まれたと思う。


ま、それが私も含めてほとんどのテレビ評がプロ・アマ問わずナンシー関の掌の上で踊っていることの理由だ。


ナンシー関が異議を唱えていたことは、たいていの場合が「何だかわからないけどチヤホヤされている人」の「何で」の部分であった。しかし、それがジジイの繰り言で終わらなかったのは、本質的なところでナンシー関が「テレビ芸」を認めていたからだと思う。
たぶんドリフとかが好きだったんじゃないかというのは容易に想像できるし、たけしチルドレンであることもカミングアウトしていたが、私はカギになるのはナンシー関とんねるずのファンだったことだと思う。


とんねるずこそ、テレビ以外では輝きにくいタイプのタレントだからだ。


だから、当然ナンシー関はどこかでテレビを愛してた。ただ、テレビ特有の「なあなあ体質」みたいなものに過剰に敏感だったということだと思う。


さて、実は「ただテレビに座って思索をめぐらすだけで原稿を書いている」と思われがちなナンシー関だが、早すぎる晩年にはわりと資料を調べている。
調べないで、何となく感性で書いちゃえばいいや、という時代とは明らかに時代は違ってきていたのだ。


もうひとつは、娘。全盛時のつんくの戦略にナンシー関がつっこみを入れられたかというとむずかしかったのではないかということ。おそらく憎んでいたであろう秋元康から二周くらい回ってしまったつんく戦略は、明らかに80年代的なものから脱却しつつあった(まあ、ナンシー関がもし今生きてたら落ち目の娘。を叩いていたかもしれないけど)。


んだから、残された我々のやるべきことは、ナンシー関の功績を再確認するとともに、彼女の限界点を把握することなのだ。
でないと、我々にとって明日はない。