ミュージックバトン補足

http://d.hatena.ne.jp/nittagoro/20050617

↑上に書きましたが、後から読み返すとなかなか恥ずかしいものがありますな。
「音楽」に関しては語る機会がほとんどないし、耳を傾けてもらえる機会もない気がするのでね。


少々補足すると(どうせ自分語りなんだけどね)、「テクノ」に関しては、あー、今は「エレクトロニカ」っていうのかなー、その辺の音楽に関しては、「人工/自然」っていう安易な対立軸を無効化しようとする動きとしてはまずテクノ・ポップがあった。
80年代初頭くらいに(最近では「テクノとテクノ・ポップはカンケイない、っていう考えの方が主流かもしんないけど、いちおうつなげて考えておく)。
だけど、テクノ・ポップは、「人工/自然」の対立軸に率先して「人工」側に与する、あるいは与しているかのように見せるパフォーマンスだった。人間人形感覚というか。


それが80年代後半から90年代にかけては、ハウスとかテクノとかが出てきて、それをよりフィジカルなものに変えたのが衝撃だったと言いたかった。


で、私よりも数年下の世代だと、この頃のテクノやエレクトロニカの背後にあるヘリクツが嫌いだという人がいて、そういう「ウザさ」は確かにあったと思う。
見方としてはテクノ/エレクトロニカはダンスミュージックとしての視点、あるいはフロアから離れた現代音楽としての視点とふたつあって、後者を強調するとどうしても嫌味っぽくなるんだよ(この辺は
ELECTRONICAはてなキーワードの説明にすでに書いてあったな)。
そして、誤解を恐れずに言えばどうしても音楽批評っていうのは後者寄りになってしまう性質があると思う。音楽だけじゃないかもしれないけど。


だから、「電ビリ」の話に戻ると、日本のダンスミュージックとしてのテクノが、ほとんど電気グルーヴから始まったというのはとても重要なことだと思う。もしケン・イシイから始まっていたらシーンはぜんぜん違ってたんじゃないだろうか。少なくとも私は聞いてなかったかもしれないね。


いやケン・イシイは嫌いじゃないけど彼は全裸になったりしなかったでしょ(笑)、そういうこと。