【書籍】・「ユリイカ8月臨時増刊号 総特集オタクVSサブカル!」 責任編集:加野瀬未友+ばるぼら(2005、青土社)
以下のテキストは、某所とマルチポストにしてます。まったく同じです。
タイトルどおりの本。こういう本って出たときに買っておかないと後で入手したいと思ってもたいへんに苦労することになるので、「後でいいや」とか思わないで速攻買ったというのはある。それと、アクセス解析するとオタク/サブカルって当サイトを読んでくれる人の食いつきがいいんですよね。90年代に青春を過ごした若い人には気になるところなのだろうと思う。
で、総合的には面白いし大幅に間違ったことは書いてないとは思うんだけど、頭から読んでいくと3人のインタビューから責任編集者二人の「対談」くらいまでで総論的なことは提示できてないといけないと思うんですよ。違うのかな? 雑誌の構成ってよくわからんけど。
で、そこまで読んでも、どの辺を最も訴えたいかというのが、まあ、なんだかよくわからなかった。「ユリイカ」という雑誌の雰囲気からして、「サブカル」側、しかも90年代以降のモノを特権化というかものすごい持ち上げようというのでもいいかな、と読む前には見込みで思ったんだけどそういうわけでもない。
もしかして(あまりに論の展開が感覚的に終始するという意味で)スカをつかまされたのか? と思ったけど、対談部分を読むと通史としては非常によく調べてあると思うんですよね。たとえば「まんがの森」新宿店が84年7月オープン(正確にはその前の店をリニューアルしてオープン)だとか「とらのあな」1号店は94年に開店だとか、「オタク」っていうカタカナ表記はいつ頃から始まったんだとか、「サブカル」っていう四文字の短縮はいつから始まったのかとかね。
となると、これはもう読者である私と本書全体との「史観」の違いの問題だとは思った。対談の中であるように、「エヴァ」がそれ以前のオタクの歴史認識をリセットしたというのは同意するけど、同じデンで行くなら「サブカル」という略称がどこかで使われていたということも調べるべきだとは思うけど、やっぱり最初に広めたのは「中森文化新聞」やその周辺だと思わざるを得ないし。現状では。
どうも、中森明夫や大塚英志や岡田斗司夫の史観とは違うアプローチをしようというのはわかるんだけど、でもなんか今ひとつピリッとしないというか……。「オタク」っていうカタカナ表記を広めたのも、オタク第一世代とそれに対するカウンター的な言動をしてきた人たちだと思うけどなー。まあそういうのを証明するのはむずかしいけど、感覚的にはやっぱりそう。
個々人の「論考」の方がうなずける部分はあった。でもそれが総論ではなくて個々の「論考」としておさまっていることに「あれれ?」と思うし、意図的なものも感じる。
本書では近藤正高は、90年代以前以後の日本のサブカルチャー状況を「通史」として見たものとしては私としては非常に納得のいくものだったし、堀越英美の「旧制高校生の教養」という観点から男オタクの価値観を見るというのにもうなずける(ただ、「萌え」が「解放された少女性」という観点のみで語れるかどうかは、私個人は留保する必要があるとは思うが)。また「アングラ」を、いわゆる鬼畜系と寺山修司などの昭和アングラと分けて論じた屋根裏、「大衆」という言葉を論考の中では確か唯一出してる更級修一郎にも同意できる。
だから「論」の公平性としては個々の「論考」の部分の方があるように感じた。それは他の自分語り的な原稿でも同じ。面白いし、それほどすっとんきょうなものはない。
ところが、(私にとっては)重要な部分が本書の前半部分ではスルーされている。たとえば「モンド・ブーム」からはリスナー側の、蔑みの視点の一般化しか残らなかったので憤りを感じたという岸野雄一の発言、「サブカル」というカテゴリ以前に大塚英志と中森明夫の「Mの世代」が89年に出てたとか、情報センター出版局が出してた「スーパーエッセイ」シリーズがその後の「サブカル」カテゴリになっていったんじゃないかという赤田祐一の指摘とか。
そういうのは私にとっては重要なんだけど、発言として拾われているだけでそこでふみとどまって掘り下げてるわけじゃないんだよなあ(まあ、「リスナー優位」の問題に関しては本当にむずかしいんだけど)。
それともうひとつは若者の政治への関わり方、というそれまでのサブカルチャー論にあった問題があまりにも後退しすぎているという点も気になった。サブカルが劣勢、って思われてる最大の理由って、そういう政治参加みたいなアプローチができなくなってるからじゃないかと思うんだけど。本書でも、サブカルがテーマとするものが反権力みたいなところから90年代あたりで「自分探し」へと以降したというようなことは指摘されてるけど、指摘されるのみにとどまってる。
でもまあ、私も極端に政治に興味のない人間だけど、サブカルって「反権力」とか「反主流」っていうところにパワーがあったんだから、それがなくなっちゃったらそりゃ元気もなくなるよって思うんだけど。
ここから先は完全に私の私見になるけど、「サブカル」っていう文化的カテゴリとは別に、「論」というか「視点」で言えば「論壇」とか「社会評論系」みたいなジャンルがあって、それはサブカルとはつかず離れずで90年代半ばまでずっと来ていたわけでしょう。そっちの元気がいまぜんっぜんなくて、それは「サブカル」というカテゴリでいろいろなものを見ても元気がないのと理由は同根という気がするんだけど。
そういう「政治、社会問題に関わる」という観点で見ると、有害コミック規制問題や、音楽だと90年代初頭にはクラブの営業に関わって風営法に反対するというのがあったし、それと最近ではCCCD問題(に対する反発)がそうでしょう。CCCDに関しては本書にも触れられているんだけどそれはインタビュー記事の中で、やっぱりそれがどうこうってのが通史として位置づけられているわけではない。CCCDに対する反対表明が、まあ問題自体の特殊性もあるけどそれほど盛り上がらなかった(あるいは冷めている人、無知な人とそうでない人との温度差がすごかった)ということも、サブカルの元気のなさを表していると思うんだけど。
で、「カウンターカルチャー」だとか「反権力」、「反主流」ということの意味に関してはやっぱり総論的な部分(「対談」はひとまず総論でなくちゃならないと思うんだけど)では語られてなくて、後の方の「論考」の中にまぎれこむようなかたちで入ってる。それが不思議。知識として書いてる人が知らないわけがないのに、たぶんわざと出してないんじゃないかな。
それともうひとつ「社会評論」観点だと、それにともなうインテリの自意識、大衆蔑視みたいな感覚からのアプローチが若干深くてもいいと思った。「趣味」とか「感性」ってだけじゃなくて「教養」としてのオタク、サブカル知識に言及してるのって前述の堀越英美だけだったのでは。あ、今までのぜんぶ敬称略です。すいません。
オタク論に関して、過去にあまりに極論が横行したという意識から慎重だったのかもしれないけど……、連続性がないならないで「連続性がない」けど「そういうものが断続的に出てくる」っていうのもひとつの連続性だから、そこをふまえつつもうちょっと「90年代サブカル、いいじゃん、良かったじゃん」って強く打ち出してもよかったような気がするけど。