教育を論じる番組

http://d.hatena.ne.jp/TheMan/20051113/takeshi

こういう番組って昔から苦手なのです。何故なら、いつも結論が一緒だから。詰まるところ、結論は「昔は良かった」「今の教育はダメ」「今の子供はダメ」「今の親はダメ」に集約されるわけで、「画一的な教育がいけない」と言いつつ、そういう風に現代を画一的に規定することに執着してるというか、そういう感じが。


まったくそのとおりなんだよね。だから私もこの番組、観てないんだけど……。
ただ時代的に「いつが黄金時代だったのか」っていうのが、そういうことを言う人がトシをとるごとに変わっていく、その変化が行われているのか、いまだに行われていないのかには興味があります。
まあ、たけしが司会なら私が中学生くらいのときとそう変わらないかな、と思うけど。

大人から「お前らは不幸な時代に生まれたな」って規定されるのって結構辛いよ?


そうなんですか。私が小学生くらいのときは「おまえらは幸せだ、おまえらは幸せだ」って言われてたんですよね。
それは言ってる世代が戦争を体験していたからなんだけど。今は平和だからいいよなみたいな感じで。
で、戦争のイヤな話はたくさん聞いて、その頃小学生くらいだった人たちまで「戦争のイヤさ」は聞くんですよね。
ところが同時に、「昔は町内で大人が知らない子供を叱った」とか、「子供同士でガキ大将を筆頭とした縦のつながりがあった」とか、「恐いけどいい先生がいた」などの言説は、軍隊に入ったり軍事教練をさせられたりといった世代からも聞きますね。


要するに、いい思い出と悪い思い出が錯綜しちゃってるというか分化しちゃってるんですが、これは単に話している人が自分に都合のいいことをしゃべっているというだけではなく、「教育」を語るにあたって、どうしてもそれを受ける側の「不条理感」みたいなものが大切になってくるからだと思う。
不条理、非合理なことに対する耐性を身に着けないとどうもならんというところがあって。


だから、実は私も教育問題って何でも合理的にすればいいとは、思わないんですよ。
だけれども、年長者の言う教育論は、たとえそれがとおりいっぺんであっても、「非合理の合理性」とでもいうことがちゃんと働いている、と主張する場合が多く、その「非合理の合理」みたいなことを、昔ながらの共同体に求める場合が多い。
だけれども、じゃあそういう共同体がどうして出来たのか、ということになると、義理人情の世界になっちゃってわからなくなっちゃうわけです。


たとえば「ゆとり教育」批判において、それまでの受験戦争が「詰め込み教育だった」ということを見直し、過去の教育において暗記中心の「詰め込み教育」がなかったわけではない、ということを検証している人もいます。
受験勉強っていうのも、まあ一種の非合理性なんですよね。いやある程度までは学力を試す意味があるんだけど、それをギリギリまで突き詰めていくと無意味化していきます。


で、私は非合理なことはまあそれはそれでいいとは思ってますよ。だけど、同じ丸暗記するなら他のものがいいんじゃないかとかね、そういう議論が、まああるのかもしれないけど私は知りません。
要するに非合理だと認めたうえで、大局からの合理性を観ていくというような視点ね。


あ、あと番組も観ないで書いちゃいますが、昔というか10年くらい前までは「学校、学校というが、親がすべき教育を学校に押しつけている」という批判が多かったですよ。
だけど、親の生活レベルや教育レベルが低い状態で、なおかつ働いていてほとんど家を空けているとか、そういう人が少なくないわけだからそんなことも言ってられないのじゃないかと。


要するに「親がすべき教育を学校に押しつけている」という言説の中には、言ったら「積木くずし」みたいなね、生活レベルは上なんだけどグレてるみたいなケースに重点を置きすぎてるんじゃないか。
もともとがそれ以前の、じいちゃんばあちゃんもいた「大家族」を理想とした物言いなんだよね。ところが世の中逆で、核家族化にも歯止めはきかないし離婚率も上がってるだろうから、どんどんそういう言い方は「絵に描いた餅」になってますね。