嫌オタク流

http://www.hanmoto.com/bd/ISBN4-7783-1001-2.html


上記の目次しか見てないけど、すごい感慨があるよなあ。
いやたぶん出ているメンツはかなりたいした人で、言っていることはかなり正論なんだろうなと思うし、
出版企画としても面白いと思うんだけど。


なんだろうこの自然に出てくるため息は……という感じ。


「なんだろう」じゃねえんだよな。本当は私自身でわかっております。
要するに、第一世代が繰り返してきたことが第二世代より下の世代でも繰り返されているということのため息、であります。


何度も何度も書いているけどだれからも相手にされませんが、
「オタク論」というのは「オタクの中でもいちばんアホな人、いちばんダメな人」をどう評価するかという問題にいつでもなりうる(「オタクエリート」は、それがねじ曲がりすぎて遠心力でどっかに飛んでいっちゃった印象だけど)。


で、それはどういうことかというと「普通のそこら辺の人が生きていくためには、どうしたらよいのか」ということなわけです。


そういう問題は、昔は宗教とか哲学とか政治とかの問題だったわけだし、現在もそうだけど、
よりわかりやすい、身近な感じで語ろうとするとどうしても恋愛やシュミなどについて語ることになる。
恋愛やシュミが、衣食住とは少し違った「テツガク」へのとっかかりだから。


「オタク」が最初に社会現象として取り上げられた1970年代から80年代初頭、あるいはミヤザキ事件直前直後の80年代後半、
まあまじめにそれをやってるのが「宝島」くらいしかなかったということもあるんだろうけど、若者の政治離れ、テツガク離れ、活字離れを嘆く声が多かった。
それは、それまで「教養」とされてきたものが大きく変化をとげるということで、
政治やテツガクや学問や知識・教養を武器として世の中を斬っていた人たちのとまどいや嘆きであったわけだけど、


15年ほど前はまだ、そういう「なんかベンキョウとかしてそうな感じの人」というのは「負けつつある、あるいはどのようなかたちにせよ『若者の知のアイドル』の前線からは後退せざるを得ない」という存在としては確認できた。
まあその後も「ゴー宣」騒動とかいろいろあったけど、
なんか最近、そういう「社会評論系」の言動ってキチンと見えてない気がする。
それに関してはいろいろ理由もあるだろうし、かたちを変えてきているということはあるにせよ、
ソッチ系の言動と、ファッション的な「オタク論」とをアウフヘーベンしないと、日本に明日はないと思う。
だからまだ読んでないこの本がそうなっていたらいいな、と勝手に思う。


・そもそも「教養」とは何か?
・「インテリー大衆」、あるいは「金持ちー一般人(貧乏人)」という関係をどうとらえ直していくか?
・要するに人はどのように生きていったらいいのか?


……というようなことを射程にとらえていなければ、どのようなことを言っても届く範囲が限られてしまうのではないかと思う。


この項、長くなって申し訳ないですが、
第一世代の「オタク」って「○○イズム」みたいのがあってそれにしたがって行動していたわけではなくて、
何かやむにやまれぬウズウズしたものがあってその衝動にしたがって行動したらそうなってましたみたいな部分があったと思う。
だから、テンからそれまでの大衆運動(まあ、当然従来の意味での「運動」ですらなかったと思うが)とは違ってた。
20年くらい前のオタク論の本っていうのは、当事者意識を(当時にしては)全面に打ち出した大塚英志以外は、
「インテリの俺様が、言葉を持たない大衆に言葉を与えてやる」みたいな感じだった。


でもそういう単純な図式ではあてはまりませんよ、というのがだんだんわかってきて、95年あたりでいろいろと変化するんだけど、
ここへ来てまた同じことが繰り返されるのか? については、興味がある。
(本当は、興味ない。もうついていく気力がない。)


いやほんと、こういう話はけっきょく「インテリいかにあるべきか?」みたいな話になっていかざるを得ないわけだから。
いわゆる秘宝系の言動で出てくる「ボンクラ」って言葉は、
実は60年代に革命の「闘士」とか言われていたものの裏返しでしょ。
で、革命の闘士になるには資本論くらいは読んでおかなければいけなかった=教養、ってのがあって、
また一方で「机上の空論ばかりではいけない=バンカラバーバリズム」
みたいのがあったんだけど、その価値がここへ来てあまりにも「一般的に」下落してしまったために、
謙遜としてみずからをそう称しているわけで、
やっぱりどうひねっても「教養」とか「生き方」の問題にならざるを得ない。


あと問題の争点もはっきりしてるよね。
オタクって、
「誤解があるけどあんがいまともだよ」
っていう言い訳の仕方と、
「まともじゃない部分そのものを認めさせる」
ということがあると思うんだけど、
「まともじゃない部分」はもう永遠に平行線だからね。


最初の「ため息」の話に戻るけど、
そうした「教養」の問題の大きなフックとなるのが「オタク」とか「萌え」っていう、
わざと低めた言い方をすれば「たかだか趣味趣向」の問題になっているという、
15年前の言論状況の縮小再生産(おそらく市場的には拡大してると思うけど)にしかなっていないというのが、


私の歴史認識からすると、70年代半ばにすべてが終わってしまって、
後は単におんなじことを繰り返してるだけみたいな状況に見えてしまうし、
それはジジイの繰り言としてみてもだ、
何かこう、おんなじところをぐるぐる回っているようにしか思えないのも事実。


わかんないけど。すごくいい本かもしれないけど。