オタク論は繰り返される

私も、読んでいない本の目次をたたき台にして長文を書きすぎてしまったと思っています。
前のコメントにも書きましたが、いい本になっていればいいなと願っています。
(ですんで、以下の文章はもう「嫌オタク流」とは関係ないです)

あと「70年代半ばにすべてが終わってしまって後は同じことの繰り返し」っていうのは当時の状況を見てないのでコメントしづらいけれど、もっとマクロに見ればそこには繰り返しを必然とする何らかの構造があるんじゃないかなあと思います。
gekka blog060114メモ


私もその辺はときどき考えてます。で、「70年代半ばにすべてが終わってしまった」という感覚を詳述すると、世界全体を把握することが非常にむずかしくなってきたのがこの頃からかなと。
まあけっきょくどこまでさかのぼるかなんだけど、米ソ冷戦構造が完全に崩壊した90年代初頭を区切りとする人もいるでしょうし、明治維新までさかのぼっちゃう人もいるでしょう。ですが「オタクの誕生」ということを考えた場合、70年代半ばを便宜上の区切りとしたい。
この頃、いわゆる「オタク第一世代」が出てきているので。


で、なぜオタクが誕生したかは実にいろいろな観点から見れるんだけど、もっとも大きいのは「知識全般」とか「教養」が「政治」と乖離した、ということだと思ってます。もちろん、オタクにしても国際政治に詳しいとか明確に支持政党があるとか、そういう人はいるでしょうが「教養全般」ということを考えるとこの頃から有機的というか必然的なつながりが薄まってきているように思う。


そして、薄まるとどうなるかというと、私見では教養はあるけどちょっと腕っぷしの強そうな、積極的に現実世界にコミットするタイプと、あくまでも知識がブッキッシュなものに終始するタイプに別れてしまう。その対立がいまだに引きずられているのではないかということを考えてしまうということです。


だから「70年代以降同じことの繰り返しじゃないか」って書いたのは、「教養」をめぐって、そういう押しの強いタイプと弱いタイプに分かれてずーっといがみあっているという構造があるからだと思ってます。


それまではたぶん「教養」というのはもう少し統合されていたんじゃないかと、まあリアルタイムの雰囲気は知らないけど思うんですよね。全共闘世代の人とか見るとそう思う。


そして「統合された教養」を志向する人の中には、簡単に昔の学生運動だとか逆に軍隊だとかね、そっちに理想郷を求める人がいて、いやそれはさすがにちょっとないだろう、というのをいつも思うんですよね。
まあ単純に考えればアリかもしれないけど、深く考えたらナシだろうと。
だいたい世界を統合してものを見ようとする、なおかつそれを発言する人というのは押しの強い人だったと思うんですよ。中森明夫がいちばん最初におたく批判をしたとき、「コミケに、クラスではじき出されたようなやつらが集まってる」的なことを書きましたよね。
なんかね、おたく批判ってこの頃(80年代半ば)から、「統合された教養と行動力を持ったおれたちの意見が通って、もっと世の中が変わってもいいはずなのに、変わらない。それなのにケンカのひとつもできないやつがくだらない知識の量を競い合って喜んでいる。それが気に食わん」っていうルサンチマンがずっとあるような気がするんですよ。


おたく批判って、たいていが「おまえら社会的に認められないとか女にもてないとかいったルサンチマンの上に理論武装してるじゃないか」っていうものが多いんだけど、じゃあオタク批判者にルサンチマンはないかというと思いっきりある、と私は思う。


でですね、それに感づいている人たちは過去の政治運動だとか言論状況だとかに戻ったり社会評論系の知識で武装したりする。しかしですよ、社会評論系の知識・考え方はともかく、そのアウトプットの仕方、「偉いインテリ様がアホな一般大衆を導いてやる」、あるいはその逆に無責任に大衆によりそった結論を出す、あるいはまた「おれたち」の範囲を曖昧にしたまま、それがあたかも一般大衆と限りなく合致するかたちで真実を提示できるかのようにふるまう、そのような態度で成果がどの程度上がっているかって、私は少々疑問なんですよね。


むろん、オタクはオタクしか擁護しないことが多いから「どこまで言葉が届くか」ということでいえばまだ社会評論系の言葉の組み立て方を知っている人間の方が勝つかもしれないけど、それ以上のものがあるかというとかなり疑問。限界を知りつつやるのはかまわないけど、まるで限界がないかのようにふるまうのはおかしいと思う。


その辺を模索しているのがいわゆる「秘宝系」の人たちなんでしょうけどね。一見アホだったり子供じみたりするものから人生や政治について考える道筋をたどっていこうという。