萌えとツンデレ、足したらモエツン

http://d.hatena.ne.jp/toronei/20060204/M


http://d.hatena.ne.jp/nittagoro/20060204#p1


http://d.hatena.ne.jp/nittagoro/20060204#p2


まあツンデレについては前からあったと言われて、「たとえば『きまぐれオレンジロードの鮎川』」と言われてポンと膝を打つようなオッサンな私です。
実はこのあたりについては語り出したらキリがなく、なおかつ不毛なんですが、まずモエツン(もうめんどうくさいから略す(笑))に対する疑問として性欲にきっちり着地しないというのがある。
「これは性欲なんだ」ってきっちり規定したくないから、萌えとかツンデレとかというシチュエーションに対する執着が生まれるように思う。


では性欲ではなくて何なのかというと、限りなく恋愛感情に近いものなんだろうね。
恋愛資本主義」と言うけれど、萌え/ツンデレ志向というのは、「恋愛感情的なものを温存する」という意味では「恋愛資本主義」ではないかもしれないけど「恋愛至上主義」ではあるかもしれない。
しかも対象が現実の異性ではないので、モテることすらない。それが私の根本的な疑問になっている。


オタク史的に言えば、「男の子が女々しいものに傾倒すること」は「間違ってはいないんだ」というスタンスの、70年代当たりで24年組の少女マンガを「発見」した男の子たちのメンタリティがそのまま発展し継承されると「萌え」になる、ということなんだろうね。
だから、ポストモダンという文脈で「萌え」を解くというのも、私は本当は疑問です。
やるなら最低、70年代半ばから解いていかないと。


「萌え」と名付けた段階で、他の表現され得ない何かがそぎ落とされてしまう。それがイヤ。
そして「あえてそぎ落とす」ことが「動物化」ということなんだろうけど、それも疑問です。


ツンデレ」に関しては、前にも書いたけど異性に対する所有欲が屈折してできたとしか思えない。
日本の男性は、女性をあたかも「所有する」かのように振る舞うことを、90年代初頭くらいまで強要されてきた部分があった気がする。
そこに無理が生じてきて、「自分が所有される」ことに安心感を持ちたい(それは実際に「所有されているように感じられる」という安心感と、「所有されてもいい」という対世間的な安心感と)という意識から生まれたのだと思う。


ものすごく簡単に言うと、昔っからあって今でもあるベタな少女マンガの男女逆転版の設定だよね。


あとあれですよ。映画とかによくあるんだけど、対立していた人々がお互いのトラウマを語り合うことによって心理的に近くなるという。それの系譜という気もする。


まあ、自分にとってはどうでもいいことです。



あ、そうそう、それと、これは強く主張したいけど「オタク」という言葉から「萌え」が乖離しているのなら、一度きっちり「萌え大賞」みたいのやったらいいと思うんですよ。
イベントとしてもぜったいお客さん入ると思うし……。
もしかして「サブカルVSオタク」よりも「萌えVSそれ以外のオタク」という対立概念の方が、今は面白いかもしれないなあ。