もう、アイドルを昔のようには愛せない

いやー、ちょこっとブログを廻ったんですが、
やはり、とくに「紺野」、「小川」という意味の言葉をタイトルに冠しているハロプロ系のブログは落ち込んでいますねえ。
当たり前だけどね。


で、なんで下に書いたテキストは奥歯にものの挟まったような感じになってしまったかというと、
自分はもう十代、二十代の頃ようなアイドルの愛し方はできないよ、というそういう意味でした。
自分語りですいません。


えーとですね、私はその昔、高岡早紀のけっこうなファンでした。私はハロショで写真を買ったこともないし、コンサート行ってもグッズ系のものはひとつも買いませんが、この人のだったら昔よく買ってました。
コンサートにも行ったし。


それで、一時期出なくなって、「忠臣蔵外伝四谷怪談」という映画で脱いで、いろんなドラマや映画に出て、
それでもって、結婚して子供産んでまた復帰して離婚して現在に至ります。


このときの「あー、残念だなあ」という感情は、たぶん十代、二十代の独特な感覚でのみ抱けたような気がします(実際、高岡早紀が結婚したとき自分は何歳だか忘れましたが)。


その後は、どんなアイドルが好きになろうが何だろうが、それはもうゲームで言ったら二周目、的な感覚ですよ。
他の人は知らないけどね。自分はそう。
だからハロプロでも何でも、すべてが「二周目」として起きている出来事に思えてきて、それだから自分には卒業とか引退に関して語る資格はほとんど無い、と。


実は過去の卒業に関しても自分は何度かブログ上で書いていますが、
それは「ハロプロ」というものの戦略的な面であるとか、何とかつんくの策略を見破ってやろう、的なものだったように思います。


まあ、「若い子に興味が無くなる、正確に言えば過去と同じような興味が持てなくなる」のはトシをとってくれば当然のことなんだけどね。


で、話は飛躍するようですが、私はいまだに「電波男」という本を読んでいません。
買ったけど。
それは、何かいったん読んでしまったら言論上の面倒に巻き込まれるのでは……という自分の自意識過剰なところですが、
あれって一生妄想の中で生きていく、という内容なんですかね?


だとしたら、それは四十になっても五十になっても妄想の中で生きていくということ?


そんなことが、本当にできるんですかね?


下にも書いたけど、やはりアイドルっていうのは世代限定のものですよね。
だから、紺野や小川と同世代のファンの子たちは、紺野や小川からきっと私にはわからない情報を読みとっているというか、同世代であるというだけで共有するものがあると思いますよ。
それは、同世代であるというだけで手にできる特権的な感覚だけれど、逆に言うと他の世代の感覚は持つことが出来ない、ということですよね。


最近感じるのは、たとえば紺野と自分は当然生きている世界が違いますが、この違いというのは世代的に紺野に近いファンと自分とでは、「同じ時代を生きている、生きてない」ということで自分の方がより遠ざけられているな、と。


そういうことを、最近すごく感じるんですよね。
とくにネットでたくさんの文章を読んでいると、文面から「若い」とか「トシとってる」とかだいたいわかりますから、
会ったこともない人の若書きの文章を大量に読むというのは(あんまり四十代、五十代で私が面白いと思うような文章を書いている人はいないし)、言語化できない世代差を感じるのであまり身体によくないです。


まあ、もしかしたらだからこそ妄想だけで生きていこうとしている人は、アニメとかゲームのキャラの方が生身でないだけアイドルとかよりもいい、とか言うのかもしれないけど。
でもキャラクターの好みでも世代間ギャップってあるでしょ。そういうのはどうなんですかね?


結論は何かというと、かえすがえすも「杉作J太郎は偉い」ということになるんですけどもね。