デスノート終わる

今週号で終わったマンガ「デスノート」ですが、
私はあのラストはアリだったと思います。


もともとどのくらいまで続ける構想があったのかはわからないけど、
予定したとおりの面白さを継続できるのは、この物語の性質上、単行本6巻くらいまでなんじゃないかと思う。
それが分量的には12巻まで行った。


「Lを殺した」ということを失策だったという意見もみますが、Lとの対決のまま、最後まで引っ張ることはちょっと無理だったでしょう。
それは、本作がその性質上、「死んだと思ったら生きていた」という少年マンガの常道パターンを使えなかったからだし、
それを使わないことこそが、本作の「意味」でもあったと思う。


たとえばFBI捜査官の奥さんがデスノートの命令によって死んでいて、死ぬシーンがまったく出ないまま物語からフェードアウトしますが、
ああいう「死体を見せないで死ぬ」というパターンだと「実は生きていた」というフラグが立ってもおかしくないわけです。
実際、「少年ジャンプ」という掲載誌の性質上、私自身はもしかしたらそれはあるかと思ったし、
Lが死んだときも数週間は、「本当は死んでないかも?」と思いました。


しかし「デスノート」の基本ルールを守るとすれば、そこはぜったいに曲げられない。


もちろん、細かく見ていけば後付け的な設定が出てきていて、必ずしも連載当初の設定が忠実に守られているとは言いがたいのですが、
それでも「キャラクターの死」について忠実に守り通した意味は大きい。


それで個人的に感心したのは、最終回より1週前の話(ジャンプ23号)なんですが、
月が死ぬときに、「ノートを使う者は天国へも地獄へも行けない」っていうのがウソだったとわかる。


「死は平等だ」と。


この辺にご都合主義を感じる人もいるかもしれないけど、私は「ノートのルールに関して死神がすべてを明らかにしているとは限らない」という、作品上のゲームのルールだけ関わると思っていたことが、こういう物語上の処理(月にどのように死を与えるか?)に使われるかと思うと感心したわけです。


で、考えてみると「死後の世界」にまでゲームのルールが及ぶ、というのはデスノートをめぐるルールとしてはメタ的なもので、そのメタ的なルール(ノートによって死ぬ人間とは別のルール)を受け入れることによって、ノートを使うものの特権性が浮き彫りになっていたのが、
実はノートを使う者も、使われる者も「死」に関しては平等だということがわかる。


そして、月は「死」の「虚無性」、あるいは深読みだけれども「平等性」に恐怖して死ぬ。


ジャンプという枠内で見ると、たいていバトルもので死んでも雲の上で頭に輪っかが乗って死後の世界で生きていたり、
死んでも他のキャラクターが死後の世界に行って連れ出して来れたり、
あるいは伝家の宝刀「死んだつもりが、実は生きていた」というパターンを使ったりした。
もう、これは「ジャンプ的死生観」とでもいうべきものである。


「クレイジーダイヤモンドは死者を治すことはできない」というルールをつくった「ジョジョ」だって、吉良吉影は「死後の世界」で苦しむことが示唆される。


それとは違い、「デスノート」は徹底して「死は唐突なものである」であるとか「死の『負の』平等性」というものは守ってきたという気がする。というか最後になって貫徹の意志が見えたというか。


で、「死だけはどんな人間にとっても平等である」という前提があってこそ、最後の最後が生きてくる(まあ、あれに「はぁ?」って思った人もいたかもしれないけど)。


なぜなら、死の絶対性が裏返った存在が「神」だから。


また、ラストシーンでは「神」としてのキラ、要するにデスノートの存在は1回生のものであることも示唆されているし(あっさり続編が書かれる可能性もありますけどね)、
また死神とそれが持つデスノートの存在、という一点突破で神/悪魔という対立概念を同時に描いたという点でも評価できます。


本作に関しては、「デスノート」をめぐるゲームを描きたいのか、あるいは何らかのテーマ性があるのかという点にかかずらわると議論が非常につまらなくなるという特徴がある。
なぜなら、「死」をめぐるゲーム性の面白さの追究と、それによって紡ぎ出される物語が何をどう描くか、ということそのものが絶妙なバランスを保っているからです。
大場つぐみ=ガモウだとすると、ガモウのギャグマンガとしてのクールさ、に非常に関わってくる問題だと思うし、ガモウ作品と比べるといわゆる「死をゲームとして軽々しく扱うけしからんドラマ」的な評価とはまた違った観点が出てくるのだろうけど、残念ながら本当にガモウかどうかはわからない。)


そのバランスを最後まで保つためには、「プレイヤーとして特権を持っていた月が、実は他のプレイヤーと同等の人間にすぎなかった」と描かれるのはしごく当然のことのように思います。


もともと本作は、「デスノート」を持っている人間と持っていない人間、という不平等なゲームを、「L」のキャラクターの強さによってあたかも平等であるかのように見せる、というトリックが使われていたんですから。


要するに「死をめぐるゲーム」という点を月の死で貫徹させ、神は存在せず、死は徹底した虚無だと描いておきながらなおかつ超越的なものをもとめずにはおかない人間たち、というのを描いたというのは、私としてはちょっと他のジャンプ作品にはないオトナなラストだったな、と思うんだけど。
まあ「何これ?」って思う人がいるのもわかるんですけどね。