合理性と感情論

小松秀樹『医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何かサイコドクターぶらり旅

怖るべきことに、この国では、合理性に敵意を示し、感情論を隠そうとしない非専門家が、権力を持つようになってきた。非合理と感情論をまとめあげ、見える形にして、政治的権力を持たせているのがメディアである。


引用の引用というのも具合が悪いが、すいません。それと、たぶん書評を読むかぎり自分もこの本の内容に関しては同意するところが多いとは思う。


で、それと矛盾&飛躍することをこれから書くのだが、
日本のエンターテインメントは非合理と感情論を描かなくなってから面白くなくなった。
それは、逆に言えば昔はいくら非合理や感情論を描いてもそれが現実にすくい上げられることがなかったからだとも言える。
実効性のない行為(エンターテインメントを消費する行為)で、人々は(かつては)溜飲を下げた。


あるいは、マスメディアは非合理と感情論をすくい上げるというのがある程度仕事だった。
他の国は知らないが、日本のジャーナリズムはエンターテインメント的側面も無視できない。だから人気を取ろうとすると非合理と感情論をすくい上げるという結果になる。


本書の内容(の紹介)にそって言えば、非合理性や感情論に飛びつくのが一般人の習性みたいなもので、これは止めようがない。
むしろ、そのような意識がマスメディアによってどうして「政治的権力化」するのか、のシステムに着目する方がいい(本がそのことに触れているかもしれないけど)。


たとえばかつての患者が、医療行為の危険性についてそれほど覚悟を決めていたかというと、そうは思えない。
かつて、医者はもっと権威的なもの、権力的なものだった。みんな「医者がそう言うなら仕方ない」とあきらめたのである。


いつの間にかその権威というか権力というか、「医者が言うなら仕方ない」という部分がなくなった。
しかしこれは医療だけの分野に限らず、どんな世界でもそうである。
その理由はいろいろだろうが、少なくとも患者の医者・医療感が過去に戻ることはないだろう。
現場レベル、訴訟レベルのことはわからないが、医療ミス問題などのメディアでの取り上げ方、あるいは受け止め方をみると、
「医者が言うんだから仕方ない」と思っていた頃も「実は裏で適当なことやってんじゃねェか?」という疑いの心が一般人の間にはあったのであり、
それを表明する空気なりシステムなりが確立されてしまえば、それは過去に戻ることはない。


で、ここで私が書きたいのはそういうことではなくて、
純然たるエンターテインメントの世界では、むしろ非合理性や感情論を抑制しろという動きになってきていて、
新聞だのワイドショーだのは単純な非合理性や感情論に、いまだに訴え続けているという現状のことである。


エンターテインメントはゲーム理論でもないし、大学のリポートでもないのに。
そもそもが、エンターテインメントというのは新味を出そうとすればそのお話を構築するシステムにどんどんがんじがらめになっていくというのが、
ひとつの罠である。


むしろ、その罠からどうすり抜けるか、というのが作者の腕のみせどころなのだが。
(逆に、「システム的な複雑さ」を人間というものの非合理さや感情論と、それこそシステム的に分離したのがミステリ、推理小説である。推理小説のシステムにそって描けば、どんなに作品内で物語を構築しているシステムを複雑化・自閉化させても、感情だけは自由に動けるようにできている。
島田荘司の小説が、トリックは珍奇なのに案外動機はベタだったりして、「特捜最前線」みたいな着地をしたりする場合があるのもそれが理由だと思う。)