意味があることしか、しちゃいけないんですかァ?

ちょっとある小説についてどういう評があるか調べるためにネット検索していたら、ある批評サイトに出くわしてムカついたので、URLを示さずにそこについて思ったことを書いてみることにする。
(私にとって、そういうサイトは地雷、もしくはエロ画像サイトに貼ってある死体写真を見るようなモノなのである。だから書くことで一種の「お祓い」が必要なのである。)


よく「願望充足小説」とかいうけど、それでいけないんですかね? いけないの意味がまったくわからない。
繰り返す、まーったくわからない。
まァたとえば純文学ならそういう批判は成り立つかもしれませんよ。文学の定義っていまだによくわからないけど、クリエイティビティが第一なんでしょ。それに「人生とは」とか考えなければならないんでしょ。文芸映画とかもそうだけど。だったらそういう批判は成り立ちますよ。


でも、エンターテインメントをそういう基準で見れるだろうか? っていうと、はっきりと、そういう見方は偏っていると思う。
だって、別にそういう意図で書かれているわけでもないし、そういう意図で受け止められているわけでもないからね。


まあ、言論の自由があるから、そういう観点でものを見るな、語るな、とは言わない。
だけれども、あくまで自分の視点が偏っているということは大いに自覚してもらいたい。
何か、あらかじめ「すべからく文学的であるべし」と前提として語るのはぜったいにおかしいし、またその意味がどれだけあるかも疑問である。


たとえばあらゆる作品をすべてポルノとして見るとか、やおいとして見るとか、メカがどう描かれているかだけを基準に評価するとかね、それくらい「文学的かどうか」は偏った評価視点だと思う。
だから、本人が自覚していれば、他の「すべてをポルノと見る」といった視点と同列という意味では意味があるのだけど、
自覚していないと本当にウザいです。
(見なきゃいいんだけど、文章って絵や写真と違って意味をくみ取れないと自分が読むべきものかどうかわかんないんだよ。)


逆に、「人間が描けてない」とか「人生が描けてない」ということが「面白さ」につながる場合は、「面白さ」に、「人間を描く」などのことがどう寄与するか、という観点から論ずることはできると思うけどね。


別の言い方をすると、文学寄りの立場でエンターテインメントを批評する人がいつも怒っているように見えたりするのは、本来自分が本流のはずなのに、世の中が変わってしまって(具体的に言うといつ頃からだ? 「文学」ってだけでありがたがられなくなってしまってから)本流でも何でもなくなっているという不遇感から来ていて、
なかにはそういう「不機嫌な感じ」をウリにしている人もいるし、ぜんぶわかってそういう態度を取っている人もいるけど、
大まじめに「文学的かどうか」とか、あるいは「倫理的かどうか(まあこれは文学的かどうかに含まれるか)」を価値基準に語っているテキストを見ると心底暗い気持ちになる。


もう、そういうことにデフォルトで価値がある、と思って何かを語るということは何か決定的にオカシイと思う。
そして、オカシイながらも、そういった意味を含めながら語る方法というか筋道が必ずあるはずだし、別に無くてもいい。


うん、本当に無くてもいいんだ。
だから、わざわざ語る人というのは自分で自分の語る意味というのを確かめて言及しないといけないと思う。
何かあらかじめ重要な価値があるかのように語るのは、それは一種の詐術ですらある。