「受け身のままモテる男」像について

 そして、これもまた推論に推論を重ねる物言いになってしまうが、日本の少年ラブコメマンガにおける批判に、「男の子が受け身のまま女の子に好かれる」というのがある。ま、そういうマンガは男の子の願望装置であるからして、あまりその都合の良さに突っ込むのもヤボだとは思うが、一つ言えるのは、ある時期までの日本の企業社会においては、男はやっぱり「受け身のままであっても何とかなった」ということである。少なくとも、ラブコメマンガ勃興期の送り手となった世代には、そうした認識が通用したのではないか。
soul rescue no.9


いやその辺は端的に行って「モテの大衆化」とでもいうべき変化があるんだと思います。
「受け身のまま女の子にモテる」っていうのは、直系のご先祖って「若大将」とか小林旭の「渡り鳥シリーズ」とか、あるいは東映任侠ものだと思うんです。
要するに、強い、尊敬すべき男像があって、それが達成されれば女性は好いてくれる、という価値観ですね。
だから往年のモテヒーローというのは、女性に対しては不器用だったりマメさを欠いていたかもしれないけど、「理想の男像」を獲得するためにものすごい修業、研鑽をしていたわけです(まあ、それを「受け身だ」と言われると何とも言えないですが)。


あ、あと若大将は一種の貴族ですから努力はしてないかもしれないけどね。ただ少なくとも少年ラブコメマンガの主人公のような「普通人」ではないわけです。


ところが、70年代当たりを境に「理想の男像」がハッキリしなくなってしまった。
軟派、軟弱傾向が強まり、しかし形式としての「受け身のまま女の子にモテる」だけが残ってしまった。
それと、「普通の男女の恋愛」を描こうとしたために、結果的に「普通っぽい少年」が「何の研鑽もしない」という描き方になってしまった。
「モテ」が特別なことではない、すなわち大衆化したということです。
それが、私の考える昭和のラブコメマンガの少年像です。

有り体に言えば、「ヨメの世話なら会社がしてやるよ」ってことだ。見合いの数自体は戦後になって減っていったらしいが、かなりの部分で同じ仲介役を企業が肩代わりしてたんじゃないかなぁ、とオレは見ている。男性は、恋愛をシビアに捉えて外部へ出て行かずとも、自分の働く圏内でひとまず相手を見つけ、結婚することはそう難しくなかったのである。ラブコメマンガの「都合の良さ」の根底にあるのは、そうした認識ではないだろうか。
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「企業がヨメの世話をする」というのは、最近はどうかわかりませんが10年くらい前は確実にそういう面もありましたよ。
どこやらの一流企業では、激務のためヨメさん探しができず、その代わりに妙齢の女性を職場にいっぱい置いとくとかどこかに書いてあったし。
また、そういう環境に順応していく女性側も、一流企業の社員と結婚したい、と思ってる人が多いんでしょう(いちおう書いておきますが、すべての一流企業の女子社員がムコ取りのために就職していると言っているわけではないので念のため)。
ただ、前述のとおり、企業でのヨメ取り/ムコ取りが、企業へ生涯就職するという何の疑問も持たなかった時代に定型化していたことと、ラブコメマンガの都合の良さは別物、と私は考えています。

非モテ(苦手だなぁ、このコトバ・・・)なひとが時々「昔はよかった、実直でかっこよくない男でも結婚できた」とこぼすが、別に昔が内面重視とか清い恋愛だったとかそういうわけでは全然なく、それほど努力しないでも何とかなる体制が確立されていた、というだけである。
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それは確かにそうですね。
あと、戦後は戦争で結婚適齢期の男性が非常に少なかった、という事情もあるそうです。

しかし、日本の男の「恋愛に対する認識の甘さ」をのさばらせてきたのもまた、企業中心社会の論理であったことは、どこかで指摘されるべきだと思う。
soul rescue no.9


それはどうかな……。そもそも、「恋愛」というものがア・プリオリに存在していた、と考えるのはどんなもんでしょうか。
また、「恋愛」という確固たる何かが存在していたとしても、そもそも「ヨメを供給して共同体を維持する」ということに関して言えば、村落共同体がまずそれをやっていたわけでしょう。企業中心社会は、村落共同体でできなくなったことを肩代わりしたわけですよね。
だから、糾弾するにしてもまず企業中心社会の前に、村社会があるのでは。