「信じること」の基準

http://d.hatena.ne.jp/kumaXX/20061004#p9


「水伝」関連ですね。
私自身は、完璧に特定のトンデモ理論に関してデバンキングすることは、私自身の力ではもうあきらめているというところはあるし、
また、人間が何かを信じる場合、「理屈に合っているから」ということとは別の価値基準を持っているということも知っています。


リンク先のリンク先に関しては、確かにもっともだと思う面もありますが、
「一般市民は科学的に正しいか間違っているかは基本的に判断できない」のなら、態度がまじめであっても、あるいはふざけていても、けっきょくは一般市民は「信じたいことを信じるだけではないのか」ということにもなりかねません。
態度がふざけているかふざけていないか以前に、論理的に特定のトンデモ理論が間違っている、という批判がどこまで一般市民に通じるかという問題は、本質的なものである、ということは言えます。
(もちろん、「学会」という場で、聴衆として面白半分な態度をとっていいかどうかというのは、マナーの問題で、私自身もよくないとは思います。)


ですから、「トンデモ理論」を批判し、それが間違っていて、なおかつ害悪である場合が多いことを一般市民に納得させるには、
それが「科学的に間違っている」ことを表明することは手続きの第一段階として絶対に、絶対に必要ですが、
それを大前提としたうえで、次の段階ではまた別のアプローチが必要だということは言えるでしょうね。


「と学会」関連で言えば、
もともとが疑似科学の懐疑本というのが一定レベルの広がりしか見せなかったのに対し、
トンデモ本」という概念が初めて、まずまずそこら辺の人も知っているレベルで認知されたという実績は認めていただきたい。
90年代以前は、そういう概念自体が無かったんですから。
また「トンデモ本」という概念が広まったのは、科学的なまっとうな批判とともに「対象をしゃれのめす」態度も力を加えたことも、また事実です。


最近問題になっているのは、リンク先のリンク先の心情を汲むならば、「トンデモ」をデフォルトで「おかしなもの」として扱って小馬鹿にする態度が蔓延している、というようなことでしょうね。


ただそれもTPOの問題でしょう。そもそも、「トンデモ本の世界」が発行される以前から、疑似科学を批判する科学者や書籍は出ていましたよ。
その中にもユーモアが含まれている場合はありましたね。
ではなぜ「ユーモア」なのか、と言ったら、疑似科学系の人たちがあまりにも真剣そのものでクソマジメだから、それを解体するという意味はあったでしょう。
ギャグは妄執から人を解き放つ効果が、時としてありますよ。
(繰り返しますが、だからといってどこでも悪ふざけをしていいわけではないですが。)

トンデモ本の世界

トンデモ本の世界


だから、「水伝」に話を戻すと(「ゲーム脳」なんかの場合もそうですが)、一般市民を説得するためには、彼らの「真剣味」がどこにあるのか、をみきわめ、それを汲んでから説得する必要があるでしょう。
たとえば「水伝」の場合には、「ありがとう」と言ったらきれいな結晶ができた、と主張する場合、
その人は「ありがとう、という感謝の気持ちが大切にされる世の中になってほしい」という願望があるということでしょう。
確かに「感謝の気持ちが大切にされる社会」は重要ですよ。でも、そのことを物理によって証明しようと言うことがそもそもおかしい。


「ありがとう」という言葉、感謝の気持ちを大切にしたいなら、たとえ物理法則でどのような結果になろうともそれを貫くべきです。


「水伝」信者には、人間の思考というか道徳哲学の面でのアンバランスを、自然界に当てはめてバランスを保った状態に持っていこうという願望が見られます。
ですが、人間の思考と自然界の動きとは非対称であるはずだからそれはやっぱりおかしいし、法則性があろうがなかろうが、道徳は道徳だということです。