アニメ会ライブ「アニメだった。14」〜12/7

於:野方区民ホール
若手お笑い芸人が5人集まってつくった「アニメ会」というグループのお笑いライブ。
かねがね噂には聞いていたのだが、「ネタになってるのがほぼ萌えアニメ」ということで、最近まったく萌えアニメを見ない私としては見る前にいろいろ悩んだりした。
だが、とにかく見ないと話にならないので見に行った。


結論:面白かったです。
実に目からウロコが落ちたライブだった。
普通、アニメネタ、オタクネタというのは、ことに密室的なトークライブなどになると「いかに濃いことを知っているか」ということになりがちである。
それはそれでものすごく好きなんだけど、どんどんお客の幅をせばめてしまうというジレンマがある。


ところが、今回見たかぎり、アニメ会のライブっていうのは、題材は萌えアニメでも、
それに対するツッコミは一般的なものなんだよね。
それはもう徹底して一般的にツッこむ。
だから、元ネタをまったく知らなくても笑える。


結果的には、今回のライブを見ることで逆に「オタク的笑いとは何か」ということを考えたんだけど、
それは「オタクとは、通常こういうものである」という、「オタク全般」の思想や行動様式を前提とした笑い、に収束されていく場合が多い、ということなんだな。
たとえば「本が多すぎて部屋がつぶれそう」とか「DVDを大人買い」とか「秋葉原に入り浸ってる」とかね。


でも、面白いことにアニメ会のツッコミというのはそういうのはほとんどないんだね。
冒頭、「この間秋葉原に12時間くらいいた」という話をしていたんだけど、
それは「新宿」でも「秋葉原」でも交換可能な話でもあり、一方で「駅前のゲーマーズに2時間いた」とか、そういう「オタク的行動」の話でもあるわけだ。
それも、たぶんバランス感覚を考えているとかじゃなくて、普通に秋葉原に行ってそのときの話を「笑い」に変換しようとするとそうなるんだろうと思う。


ここには「お笑い一般の視点」と「オタクの視点」の、決定的な差があるように思える。
それがすごく面白かった。


で、今まで、変な言い方をすると「タレントオタク」というか、「どうせたいしてオタクでもないのにそういうポジションにいる」っていう人、芸能人は仕方ないとしても文化人レベルでも、いた。
はっきり言ってそういう人の言うことってまったく話にならなくて、それで食ってるというのはそれなりに支持されているんだろうけど、私はまったく受け付けなかった、そういうのは。


でも、アニメ会の人たちは「お笑い」、「人をいかに笑わせるか」っていう軸がぶれてないし、何よりプロだから、「アニメという題材で人を笑わせるにはどうしたらいいか」っていうことを、自分たちの軸で(ここが重要)とても自信を持ってやっているな、と。


たまに、アニメ関係の番組で声優とかが司会で、「だれだれさん、お笑いに行った方がいいんじゃないですか?」みたいな超くだらない会話を聞いて私は痛い思いをしていたんだけど、
若手芸人が本気出して乗り込んでいったらどうなるかという、その結果が見れた気がして爽快でしたね。


それともうひとつ思ったのは、このスタンスというのは「萌え」という視点があってこそ可能だということ。
「笑い」って一種の反射神経だから、「歴史」というか「時間軸」にはアクセスしにくい。いやそれはできるけれども、お客をどうしても選んでしまう部分がある。
たとえば、この間テレビで円歌の落語を流していたけど、マクラのところで「昔はこういうふうにやってたんだけど今はお客さんもわかんないだろう、これもわかんないだろう、あれもわかんないだろう」っていう話になっちゃってた。
歴史を蓄積したものにアクセスするには、お客もどうしても「勉強」して行かなければならなくなる(その「勉強」が楽しい、ということももちろんあるだろうけどね)。


「萌え」というのは「感情」のことで、「情報を細かく検索して整理する」ということに血道をあげていたとされる先行世代のオタクと違い、「萌え」優先世代というのは感覚的というか、「萌え」の有利さというのは知識なんかいらずにあくまでも感覚で気軽にアクセスできるということ。
そこのところを実にうまく使っていたと思いますね。


逆に言うと、こういう感覚でのイベントというのは、第一、第二世代ではちょっと思いつかないですよ。
「知識の蓄積はどのくらいあるか」というところをどうしても一度は検討しなければならなくなるから。
「その場でいかに笑いをとるか」っていうところに感性を集約させていく、というのは、旧世代のオタクにはあまりないところなんだよね(個人個人にはあるかもしれないが)。


私個人はあまりに「萌え」というものを深く考察するというのは、ちょっとどうかとも思ってたんだけど、こういう使い方ならアリ、というか、「萌え」が一種の魂の解放としてきちんと機能している場面を初めて見たというかね。


まあそんなところを思いましたよ。