「面白漫画倶楽部2」無事終了!

無事に、そして盛況のうちに終わりました。ご来場くださった皆様、ありがとうございました。
終わった後もいろんな思いが交錯しました。
まず思ったのは、「一般的評価の対象外であるマンガを紹介する、紹介されたものを見たり読んだりする」という行為は、ここ10年くらいのサイクルでまた一周してきているな、ということ。


10年前に18歳だった人が28歳になっているのだから当たり前だと言えば当たり前なんですが、
マンガはとくに小説や映画などの他ジャンルと違って、過去がすごく簡単に「過去」になってしまうんですね。
単純に、ソフトがすぐに入手困難になってしまうから。それを痛感したことがひとつ。


もうひとつ思ったのは、映画よりも「どこがとんでもないか」の評価というのがむずかしいんですよね。マンガって、何でもできちゃうから。どうあがいても人間が演じなければならない映画とは、そこが違います。
だからこそ、「どこが変わっていて面白いか」という説明の手腕がよけい問われるとも思うんです。
逆に言えば、発表者によってぜんぜん印象が変わってしまうことも、ありうる。
そこが紹介する側としては面白いな、と。


三つ目に思ったのは、著者の意図する効果と意図しない効果、これもまた、アニメや映画よりもマンガの方がグレーゾーンが大きいのではないかということ。
理由はいくつかあって、マンガはアニメや映画よりも若干個人作業的側面が強いとか、あるいは読者、受け手の解釈の広さを許容している部分もあるということもある。


そして、「評価のグレーゾーン」のようなものをレビューとか評論に組み入れていくと、面白いものができるかな、と思っています(小説の場合は逆で、たぶん一部のラノベとか以外は、いちおう作者から読者にチョクに伝えたいものが届いている、ということが大前提になっていると思う。そういう「作家主義」ともエンターテインメント寄りのマンガは立ち位置が違うと思う)。


私の原点というのはどうしても80年代ジャンプにあるんですよね。オタク的に詳しいわけじゃないんですが、皮膚感覚なんです。
で、どんなバカな小学生や中学生だって、「キン肉マン」や「男塾」にツッコミ入れながら読んでましたよ。でも、ツッコミ入れてても、なぜか読んでしまう。感動してしまう。そういう曖昧さがマンガにはある気がしますね。


もちろん、逆に「たかが紙に描かれていることになぜこんなに感動するのか」っていう感覚も、マンガ一般にはありますよ。
でも「夢中」の感覚が、どっか他ジャンルとは違う気がします。
たとえば「映画」っていうのは、あれはもう完全にヴァーチャルリアリティー体感マシンだと私は思っているんですよ。少なくともエンターテインメント映画は。
わざわざ電車に乗って映画館に行って、真っ暗な中に入って、だんだんと気持ちを盛り上げていって、クライマックスには完全に主人公や登場人物と自分がシンクロするように持っていくという「装置」ですよね。しかも比喩ではなくて本来の意味での装置。


ハリウッドのエンターテインメント映画は、それをどこまで研ぎ澄ましていくかという一種の実験をし続けていると私は思っていますし。


そうすると「ハマり」の度合いも独特のものになるんじゃないか。逆に言えば、マンガって半分意識を外に向かわせながら味わうものだと思うんですよね。テレビもそうだけど。何か特別な箱に入って「さあ読むぞ」ってものじゃないでしょ。マンガ喫茶は「箱」っぽいけど、映画に行くような意気込みで行くところとも思えないし。


何というかな、まず「80年代以降のマンガ」というものが、「ツッコミを入れつつ感動する、感動しながらもツッコミを入れてしまう」というある意味フワフワした表現であったということと、
「お菓子でも食いながら友人の家で寝っ転がって読む」とか「電車の中で読む」などの「意識が半分開かれた状態で味わう」というマンガそのものの形式上のあり方、そういうのをね、考えながら文章を書けたらいいかな、と。


まあイベントそのもののときやその後の打ち上げでそういうことを話し合ったわけでもないんでもないんですけどね。
そんなことを後から考えました。