平成の梶原一騎待望論

昨日のエントリ、ほろ酔いで書いた。でも後悔はしていない。
それよりもその前に食った天津飯について後悔した。夜中に急に苦しくなり出した。あーもうこりゃダメだな、と眠りながらウンウン言っていたらいつの間にかおさまった。奇跡だ!!
世界はもうダメだー。


昨日の続き。そういえば中華屋でついてたテレビ「太田総理」の中でだれかが「公立はいじめが多いから私立に入れたい」と言っていたけど、この部分はああ、もうオオヤケにしちゃってもいいのねと思った。
20数年前は、それは何となくテレビで言っちゃならないことだったと思う。まあ知らないですけど。中学受験者の絶対数が少なかったから。


で、なんで何となく言っちゃならないことだったかというと、そりゃあもちろん「柄のいい、悪い」というものが、卒業した社会のコミュニティでも存在しているのだという前提がある発言だったからなんだよね。


マンガ家のサイバラ先生が、以前ラジオで「どうせいじめなんてどんなところでもついて回るんだから、子供の頃にそれに対する対処法が身に着いてないとダメ。だから公立も私立も関係ない」というようなことを言っていたと記憶する。
これ、実に正論なんだが、逆に考えると「いじめのない学校」を他の親御さんたちがなぜ望むかというと、二種類考え方があって、


・「いじめ」というのはまったくランダムに起こるもので、そこにはどんな法則性もない。だから、一生のうちに起こるいじめの回数はできるだけ少ない方がいい
・「いじめ」というのは頭の悪い人間が起こすものである。だから、一生頭のイイ人たちの中で暮らしていればいじめは起こらない


うーん今の親はどっちなんだろう。でも何となく「大人はいじめをしない」という前提に立っているような気がするな。
で、なぜ「大人は(ひどいタイプの)いじめをしない」かっていうと、なんかそういうコミュニティがあってそこに入れば不当にいじめられることは、まあ確率的に少ないだろうと信じられてる。
……っつーことは、「格差」の認識ですよね。


ただ「格差の認識」っていうのは高度経済成長期からあって、っていうのは今年定年なの? 今年定年の団塊の世代から急激にみんな大学に入るわけでしょ。
団塊の世代の親の世代なんて、大学で何をするかなんて知ってるわけないんだよ。
ただ、「大学に入れば、いいところに就職できる。いいところに就職できるなら、いいコミュニティに参入できる」っていう考え方があった。
だから(第一次ベビーブームだったということもあるんだろうけど)、この世代が大量に大学に入って学生運動とかするわけでしょ。


なんだっけなー、たまに「親が見栄っ張りなので私立の学校に入れられて、周囲の金持ちの友達から浮いた」って話を聞くこともあるんだけど、そういうことはあったと思うんだよ。昭和三十年代後半くらいまで。
でも、全国的なことだったと思う。そういうふうに時代は動いてたんだから。だもんでこういう泣き言を聞かされると「ハァ?」ってなりますよ。いい学校入れたことを喜ばないと。


で、「格差の認識」はあったけど、一方で「あしたのジョー」とかちばてつやの描く下町で泥だらけになって遊んでいる子供像みたいのがあって、あと「ど根性ガエル」のひろしもどう考えても高校に行けそうにないくらい貧乏だったけど、なんだかんだ言って大学とか関係ない人たちが昭和50年代くらいまでみんな生きていて、そこに今何となく感じられる絶望的な格差意識って、無かった気がするんだよな。
いや当時は当時でそういうことに対するルサンチマンってあったけど、比較論で言うと今の方が絶望が深い。


今、大学に行かない選択をするのとバブル前とでは、またちょっとニュアンスは違うし。


あー、何を書こうと思ったんだっけ?
そうそう、だから「お受験」(この「お受験」という言い方は小馬鹿にしていてイヤだ。ちゃんと「受験」と言え。)の必要性について論じると、どうしても「格差」について語らざるを得なくなり、それが流動的ならばまだいいが固定的になってしまった場合、どうするのかと。
そこまでテレビは本音をさらけ出せるのかと。


そうそう、それとバブル以前は「中流意識」ということで「格差」は不可視なものとされてきたという意見があるんだが(真偽のほどは知らない)、逆にまずまず平板化しそうになっていった世の中の流れで、「格差」を積極的に見いだしてそこにルサンチマンを抱き続けたのが、
梶原一騎先生ですよね。


梶原一騎の「お金持ち」とか「上流階級」に対する憧れ、そしてそれに成り上がりたいという気持ちは今彼の作品を読んでも痛いほど伝わってくる。しかも「成り上がり」ってんじゃなくて、何というかこう……「怨念」を感じるんですよ。もう貧乏だとかうまいもん食いたいとかいったことを越えていて、なおかつ「階級を越える」ことが彼のアイデンティティと抜きがたく直結している。
梶原一騎の物語が現在でも読み継がれているとすれば、その「階級差」を越えようとする心理が貧乏とか金持ちとかを越えていたからで、たとえば白木葉子のような「お嬢様」に対する憧れ、支配欲、性欲はお上品な議論をぶっとばすほどにギラッギラッしている。


今必要なのは、梶原一騎みたいな、内向的でギラギラしていてナイーブな作家なのかもしれんね。
ありゃぜんぜん関係ない話になった。
おわり。