梶原一騎的成り上がりとは何か

下のエントリの続き。
なんで「梶原一騎」かというと、
「成り上がるためにはどんな汚いことでもやる」とか「成り上がるためにかつての親友が敵になり、殺す」とか、そういうのは今でも物語としてあると思うんですよ。
でもそれは違うんですよ!!(そういう話があってもいいとは思うけど)


梶原一騎も、殺伐とした話はけっこう描いているんだけど、「あしたのジョー」でも「巨人の星」でも「空手バカ一代」でも、「マジメにコツコツやってればいつかいいことあるさ」って感じになってるでしょ。
「このままじゃのし上がれないから汚いことをやる」っていうのは、現代でも物語としてけっこうあると思うんだよね。
でも梶原作品は、時代との関係もあるんだと思うけどどこかスコンと抜けているところがあって、「やっぱそういうのがないとなァ〜」と思うんですよ。


あと、少年向け作品でとくに「空バカ」で印象的なのは、細かいところは忘れちゃったけど主人公が一般人をまきぞえで死なせてしまって、「空手を捨てる!!」っていうくだりね。他の梶原作品にもときどき出てくるけど、「完全に何かを失ってしまう」という描写がものすごくリアルだった(そしてそこからの復活を描くわけだけど)。


「完全に何かを失ってしまうことがある」ということは、梶原の描く主人公は実利もあるけどもそれだけでは動いてないということですよね。でなければ、何かを失っても必ず別の何かを得るわけだから(マフィアものとかで親友や恋人などを失ってもシマや密売ルートや金が手に入るように)。


まあこの辺の個々の作家の「成り上がり感」は、松本先生が馬脚(と言わざるを得ない)を表した最近の事情とも合わせて、考えてみると面白いかもしれないですよ。
たとえば梶原一騎は、最後まで貧しい人、うだつの上がらない人が自分の読者だ、ってことはわかっていたと思うんだよね。
実際、虫ケラみたいに思ってたかもしれんけど(まあでも私の知るかぎりはどうしてもそうは思えないんだけど)、「お客様」だということはものすごく認識していたと思う。
でないと「男の星座」なんて描けないわけだし。


それと異文化への目線もあった。これも「男の星座」だけど、力道山が在日の人のヒーローであると、主人公がきっちり認識してたし。そこのところは梶原が韓国人とつき合いが多かったというのもあるだろうけど、それだけじゃないところがある気もする。


以上。