最終的には「共感」など捨ててしまえばいい?

私は、広義のサブカルチャー論は一種の大衆論だと捉えている。たとえば「オタク論」は、オタクを零落した知識人ととらえるか、底上げされた大衆ととらえるかでも観点が変わってくる。あるいは広義のサブカルチャー論には「受け手のあり方」も関わってくるため、やはり「受け手=大衆」は問題になってくる。


自分は生業以外にはそんなことばかり考えている。そんなことばかり考えていると、だんだん頭がおかしくなってくる。
たとえば「オトナ帝国の逆襲」や「Mr,インクレディブル」は、落としどころが「家族の大切さ」である。この二作を観る人たちはたいてい感動する。しかし、そういう人たち(私も含む)が独身で子なしだったりしてもいいのだろうか?


もちろん、「自分が子供の頃の記憶」を検索して感動するというのはアリだと思うが、「家族の大切さ」に感動する自分に家族がいない、というのは、それは何というかこう、正しいことなのかね?
そういうことを考えると、頭がおかしくなってくるのである。


大衆文化というのは最大公約数的に「感動するもの」を選択して料理して大衆に提供する。そこには「最大公約数」という説得力と、そこからこぼれ落ちるいろんなものがある。それをどうとらえるか? ということが問題なのである。
でも、そういうことを考えていると頭がおかしくなってくるんですけどね。


しかし世の中の人々というのはけっこうツラの皮が厚くて、私が思っているようなことはあまり思っていないらしい。


そうか、これほどの苦しみを味わうのなら、フィジカルな部分を捨象してあらゆるものに「浅く共感する」、あるいは「共感するフリをして」生きていけばいいということなのか?


まあ、そういうことは普通の人は普通にやってるのである。あるいはオタクの「妄想」にもそういうところがある。普通の人とオタクの違いは、オタクの方が多少荒唐無稽で創造的な妄想を紡いでいるというところにある。


思えば、自分は相当な数の作品に対して「共感するフリをして」生きてきた。たとえば小学生時代にけっこう少女マンガを読んでいたが、ンなもの、少女の淡い恋への憧れだとか少女から大人へと成長していく心境だとか、本当のところはわかるはずないっての。
もちろん、優れた作品には年齢や性差を越境する力があることは確かだが、こちらが「おつきあい」している部分もあると思う。


それがたまらなく苦痛になることがある。苦痛の臨界点。
どうしようか。自分は瀬戸際に立っているのかもしれない。私が共感できない作品を切り捨てたって、だれ一人困らないのだから。