いやいや、ぜったい揺り戻し来ますって

ここ数年、「萌え」という概念絶賛も、あるいは全否定も両方オタク方面から聞こえてくるんですが、
今期、珍しく思い立ってアニメの新番組をいちおう設定だけでもぜんぶチェックしてみたんですよ。
そうしたら、「男の子が主人公」の作品は確実に増えてますよね。印象だけど。
設定も、SF、ファンタジー仕立てのものが多い気がしてて、これは揺り戻しなんじゃないかなと思ってます。


もう、ここ5年くらい「女の子が主人公の萌えアニメ」が多くて多くて、アニメを毎週観る習慣が自分はなくなってしまったんですが、
今期は少なくとも企画としては理解できるものが少なくない。


あずまんが大王」とか「まりみて」とか以降、「女の子がたくさん集まってワイワイやって、その中には男の子の存在すら必要ない」ってのがものすごく増えたけど、さすがに揺り戻しが来るんじゃないかとは思ってますね。あくまで予想にすぎませんが。
911からもさすがに数年経ってるんで「セカイ系」的なものからも揺り戻しが来ていいと思うし、マンガも借金取りだとか水商売だとかの倉科遼一人勝ち(いや「一人勝ち」ってことはないんだろうけど)状態とそれとはぜんぜん関係ないところでIKKIとコミックビームしか読まないみたいな、そういうのからはもう少し時代が動くんじゃないですかね? 動いてほしい。


メカフェチが死んだ」って話は、フィギュア、プラモ、おもちゃとかはむしろ80年代当時から比べると比較にならないくらい充実してて、なおかつそれを語るコトバも充実しているだろうからよくわかんないですけどね。


むしろ、「わざわざアニメに出さなくてもいい」っていう時期が続いたのかもしれないし。
要するに、何度も例に出すけどむかし「トリビアの泉」でやってた「世界のパトカーのサイレン音が収録されたレコード」ってのがあって、アレはビデオが無い時代だからこそリリースされたんだと思う。ビデオという媒体があれば「世界のパトカー」という企画自体が成り立つけど、それがないから今観ると珍妙な商品としてレコードが出てた。
それと「ドラムセットのプラモデル」とか「オーディオのプラモデル」とかも、「もうそれくらいでしか表現できないから」、「他にそれらを表現するものがないから」という理由で出てたと思うんですよね。


で、現在は「メカ」ってのは何もアニメとか映画の中に出さなくても、いいオモチャいっぱいあるし市場も確立されてるし、ってことじゃないんですかね。メカフェチ的要素がアニメにすごく多かった時代というのは、そういう欲望がアニメという媒体以外で表現して儲けるのがなかなかむずかしかったからじゃないのかなー。


対するに萌えだとか女の子がやたら出てくるアニメが減らないのは、……もうここまで書いてめんどくさくなってきましたが、「オモチャは金で買えるけど女の子は金で買えない」からなんでしょう。少なくとも未成年は買えないでしょう。


「萌え四コマ」は、私も面白いと思えるのは少ないけど、「マンガ」って基本的にみんなの頭の中にある「マンガ」という形式を、ほっとくとどんどんどんどん自己解体する性質があるものだと思っているので、まあ存在自体がしょうがなくはあるんですよね。
たとえば昔は「ストーリーマンガ」、「ギャグマンガ」っていう区分があったけど今あるの? そもそも「ストーリー」、「ギャグ」っていう区分自体、それこそ手塚〜石森、それと劇画に対して赤塚不二夫だとかつのだじろうのギャグとかが対置されていた頃の概念で、いちおうマジメとかギャグとかの区分は便宜上あるけど、それはあくまでも便宜上のものでしかないでしょう。


もともとプレーンに、根源的に存在するのは、一枚絵とか「ラクガキ」とかであって、それをどのように組み合わせるかによってマンガはできてるので、いったん気を抜くととめどなく崩壊していく、エントロピーが増大(増大でいいんだっけ?)していくもので、
さらに生産システムも、それこそだれでも書ける、資格もいらないしある種のコミュニティに入る必要も先輩も後輩もない世界だから、そりゃほっといたらグダグダになりますよね。
(いやすべての萌え四コマがグダグダだとは思いませんけど。)


……それにしても、ここまで書いて思ったけどけっきょく「オタク文化」って「先鋭的だ」と思うか「保守的だ」と思うかでそうとう考え方が変わってきてて、オタク文化って基本的に大衆文化でしょう。「アニメ史」、「マンガ史」っていう観点から見たら時代をつくっていく天才が要所要所にいて、その亜流にすぎない人たちがその点を結んで線にしていく、という歴史観だけど、
「オタク史」っていうふうに考えるとむしろ複製技術時代のなんちゃらかんちゃらで、あるいは「どう受容されたか」が問題になってくるから、
観点としては「時代をつくる天才」よりも「いかにそれが凡庸に複製されていったか」の方に観点が移るという要素がある。っていうか自分はそう思ってますね。


でもそう思ってない人もたくさんいるし、私自身も常に凡庸なものを受け入れているわけではないので「オタク史」という観点から考えると「なんでこんなものが流行るんだコンチクショー」って、自分も含めて不満の言葉が定期的に出てきて、「いやいや、でもそれは大衆が欲望しているんだから仕方ないんじゃないか?」っていう考え方が(私の中に)出てきて、それの繰り返しですよね。


っつーか、自分は今まで、10年間くらいは「凡庸なもの」に対してある程度フォローを続けるというスタンスでいたけど、
なんだかもうバカバカしくなってきたというところはありますな……。別にそんなフォロー、だれも望んでないんだよね。


世間に受け入れられない天才はフォローを望んでいるだろうけど、自分たちで欲望をつくってそれを解消している大半の人たちは、自己完結しているので他人のフォローなんかいらないし、まあオタクも浸透と拡散したとゆうことで。


ただ「天才と天才の間に凡人がいる」っていう史観は何とか覆したいので、ときどき自分は袋小路に入るんですよ。
たとえばコミケの巨大さに対し、「凡庸なものを大量に受け入れる土壌が存在することによって、頂点が充実する」という考え方があると思うけど自分はそういう考え方は取らないので。
「凡庸なものが凡庸なまま受け入れられる」ことこそが、巨大同人誌即売会の意味だと思ってますのでね。
でないと、自分たちがひと握りの天才を生み出すためだけに同人誌市場を維持し、そのためだけに参加費を払ってるってことになっちゃう。
それは哀しすぎるでしょう。それなら同人誌なんか出さないで、寄付だけしてりゃいいんだもん。


まあ繰り返しになるけど、揺り戻し来ますよそろそろ。
ゲド戦記」がアレアレってことになって、「時かけ」がいわゆる「萌え」的な受け入れられ方ではない受け入れられ方をして、そんでもってエヴァの映画がやるでしょう。あそこら辺でひとくぎりありますねきっと。