辻〜藤本あたりからアイドル論の話

・その1
やっぱり自分には、「当人にとってどうなのか」っていう視点でのアイドル論って、書けないんですよね。
辻〜藤本の件は、それを再認識したことどもではありました。


「藤本にそれほどリーダーとしてやっていく気があったのか」とか、「藤本は渡りに船とやめてったんじゃないか」とかの予想もネット上で読んだけど、
そんなこと、藤本本人でなければわかりませんもん。


ただ、私が藤本に非常に近しくなおかつ意見の言える人間で、彼女が庄司との関係発覚以前に「脱退したいんだけど……」と言っていたとしたら(あまりにありえない仮定だがそれはそれとして)、
「ぜったいやめない方がいい。モーニング娘。ハロプロにとっての支柱だから、それはあなたにとっても支柱ってことで、あなたは自分で自分の支柱を支えているってことだから」
というふうに言うだろうね。


もっとぶっちゃけて言うと、藤本美貴が、ソロとかGAMだけで人気を維持できるかということに、今回のような問題でもなければ非常に疑問を持っただろうということ。
まあ、そんなこと言ってもけっきょく藤本本人が芸能界でこのままどこまで食っていく気があるかがわからなければ、どうしようもないんだけど。
ほら、どうしても私のようなおっさんは「それで食っていけるのか」とか「家族を養っていけるのか」とか考えちゃうからね。
だけど、二十代の女の子はまったく違う価値基準で仕事をしているかもしれないわけで。


・その2
あと、自分はアイドルっていうのは確かに「どこまですばらしいステージパフォーマンスをやるか」ってのが至上の命題だとは思うんだけど、
でもそれ以外のこともすごく重要だと思っている、ってのはある。
それはバラエティだったり、写真集だったり、ガッタスだったり。
ガッタス、情報はぜんぜん入ってこないけど、でも「アイドル」の新しい可能性を含んでいるとは感じてた。


とうとう、絶滅したと思われた「アイドルコント」を「ハロモニ。」が復活させ、そしてまた消えていった。
再び「アイドルコント」が見られる日は、もう本当に来ないかも。
で、かつてのアイドルコントをたとえば中森明菜はすごくいやがっていたと思うし、本田美奈子もそうだったかもしれない。マジメなシンガーほどいやがったかもしれない。
でも、ああいうのがあってこそ輝くアイドル、ってのもあるわけで。


こういうのって、お笑いでも「漫才しか追及しない」とかあるいは「漫才しか評価されない」とか、逆に「リアクション芸人が低く見られる」とか、「ひな壇芸人」とか、そういう話とつながってくる問題だと思うけどね。
「提供された場で、どのように輝くか」という問題だから。
ちょっと古い命題かもしれないけど、格闘技方面においては「プロレスラーなのか、格闘家なのか」ということにもつながっていくだろう。
そして、アイドル歌手というものはたぶん、「テレビ」という「場」が成立して初めて誕生したものだということは、考えるべきだと思う。


・その3
疑似恋愛の本気度/冗談度というのも、ときどき議論の対象にはなりますね。
80年代は疑似恋愛というのは、どっかで最終的に「冗談」に割り振られるべきものだと思われてた。
少なくとも、ミニコミでアイドル論とかを書いている人たちにとってはそうだったんじゃないか。
いやそうでもないか。杉作J太郎はその頃からおニャン子についてとか書いていたし……。
あれだけアイドルに対して熱い人が。


でもまあ、その辺の「冗談か本気か、どっちに転ぶかわからない」という感覚が面白かったりしたんだけど。


で、別の言い方をすると「萌え」という表現は、その「冗談か本気か、どっちに転ぶかわからない」あやういバランスそれ自体を不問にしてしまう、魔法の言葉でもある。
だから、年長のオタクで「萌え」という言葉をいやがる人がいるとしたら、「萌え」という言葉を思考停止と受け取ってしまうんだろうね。


ただ、「萌え」ってのは冗談側の人間より本気側の人間が欲した言葉、概念、ツールなんだよな。
その悲壮感が、「萌えを理解できない」っていう人にはそもそも理解できないのかもしれないし、あるいはその「悲壮」を突破するためには「萌え」という概念そのものから脱却しなきゃいけない、と考えているのかもしれない。


けっきょく、「人がフィクションに託す自分の悲壮感」というものが何なのか、というところにまで問題は発展すると思いますよ。
で、それはけっきょく人生哲学の問題になるんですけどね。
そして、そうした「人生哲学を語る」というそのあり方自体が問われるということにもなるだろうし、
「真実と人生哲学は食い違う場合がある」とか、そういうところにまで思考が飛んでいきますが、果たして。