いじめっていうより、常識/非常識の境界の問題なのかも

http://d.hatena.ne.jp/toronei/20070615/T


どうなんだろうなあ……。考えれば考えるほどわからないんですよ(だから、前回も途中で書いてギブアップしちゃった)。
それこそ、極端な話「いじめはいけない」っていう番組でさえいじめの叩き台になってしまうという可能性があるので、私にはよくわかんないとしか言いようがない。
けっきょく、「結果的にいじめに影響を与えてるかどうか」よりも、その芸人のポリシーの問題に帰結するんじゃないですかね。
そして、それを受け取る側の好悪の問題になるんじゃないかと。


まあ、どうして書きにくいかというと、
私はリアルタイムでたけし軍団のガンバルマンと「オールナイトフジ」の頃のとんねるずの後輩いじりにはけっこう引いてた、ってことがあるからなんですけどね。
あとひょうきん族だと鶴太郎の扱いね。熱いおでん食べさせるとか。
(おでんのコーナーは、実は大好きだったんだけど、「いじめ的」ではある、ということで。)
「ざんげ」のコーナーも、いじめとまでは思わないけど出演者へのプレッシャーをリアルに見せてしまう、っていう演出意図は、その後のバラエティに通じるものがあると思います。


「ドリフ」が、確かに構造的には「最後にいちばん偉いやつがやられる」みたいなことになっていた、ってのはそのとおりだと思うんですけど。
志村けんが反権力というより「非・権力」的な悪ガキでね。


でも、もうすでに「ひょうきん族」あたりから、toroneiさんの言う構造はあったと思うんですよね。


あと「ドッキリカメラ」ね。あれだって別に反権力的な構造は当時から持ってませんでしたから。


でねえ……書いてる途中に急にひらめいたんですが、「いじめ」という枠でとらえるより、
「エンターテインメント全般において、『反権力』とか『非・権力』ということが、80年代を通じてそれほど意味を持たなくなっていった」ということがバラエティの演出の変化としては大きいと思います。


たとえば松本なんかはその辺をわかってて、あえていろいろやっていたという気がするし、それの究極が「働くおっさん」という気もするんですよ。
「働くおっさん」、私はしばらく休んで再開してからのはあまり好きではないんだけど、ただ松本のやろうとしていることは理解できる気がします。
松本のギャグって、「反発する権力がもはやない」ってところから始まってると思うんで。


ツービートや紳竜の頃は、まだ「いちびってやろうと思える権力、常識、日常」ってのがあったけど、
それが80年代を通じてどんどん解体していく。


そして、「元気が出るテレビ」あたりが「そういういじり対象に対してみんなが共感できる」最後の時代くらいで、
その後、「元気」に近い方法論を使っても、松村を単にいじめているだけのような演出とか、猿岩石にはまだ「青春時代に海外をケチケチ旅行する」っていう意味あいがあったけど、その後の無名芸人を起用する企画なんかではただ痛いだけのものもあったでしょう?


もう90年代に入ると、壊すべき常識ってのがグダグダになってる。
それが、「お笑い」にも影響してるんじゃないかというのはあると思います。
だから、「めちゃイケ」の有野課長の回って、私は観てないけど内容だけ聞くと「あまり笑えないことやってんなー」とは思うんですが、
けっきょく考えすぎてそういうわけのわからないところに行ってるんじゃないか? と思いますけどね。


それと、まあ確かに「楽屋裏の上下関係がそのまま表に持ち越されているつまらなさ」ということで言えば、


先週の「やりすぎコージー」で、宮迫が後輩を飲み屋でイジメた、という裁判みたいな企画があって、
最後、犯人が宮迫だ、ってわかってみんなでおさえてくておしぼりで叩こうとするんだけど、
最後に宮迫がおしぼりを奪って反撃して終わり、ってのがありました。


あそこ、それまでだったら本当に宮迫が叩かれて終わり、のはずなのにね。
まあ逆ギレして終わり、ってのは着地点としてなくはないけど……。
とは、ふと思いましたけどね。


ただ、ここではっきりさせておきたいのは、繰り返しになりますが、
私としては「ギャグのおとしどころとしての、権力とか常識いじり」ってのが、非常にむずかしくなっているということが問題で、
それはだれのせいかというと、ちょっとわからない。時代がそういう時代だから、と思っているということですね。


単に役割的に、たとえば「宮迫が叩かれた方がいいのか、キレて暴れ回った方がいいのか」という演出上の選択肢の問題ではない気がするんですよね。