またイヤなとこ読んじゃった(24時間テレビについて)

日本テレビ24時間テレビがやっているそうだ。で、この時期必ずこの番組を批判する声があちこちで聞かれる。たまたまリンクをたどっていったら、そういうところをまた読んじゃった。


ま、要するに偽善だと言いたいわけでしょ。
でもさあ、これは何度も何度もあちこちに書いてるんだけど、みんな偽善っていいすぎ。
絶対におかしい。
じゃあ24時間テレビの場合の偽善って何か? もし24時間テレビで集められた募金が有効に使われていない場合、それはあきらかに偽善といっていいだろう。


しかし、もしこのうえもなく集まったお金が有効に使われているとしたら?
別に番組の内容的には、感動の押しつけになっているかもしれないが、たとえば侵略戦争を賛美したり差別を助長したりと、かなりいろんな角度から見てもマズいことでも言っていないかぎり、番組としては何も問題ではないのでは?


いつも思うんだが、一般的に「偽善」って本来の意味で使われてない。
たとえば「親切にしてやっても、心の中ではケッって思ってる」という状況を最近では偽善というらしい。
違うでしょ。
問題なのは行為でしょ。


心の中で何思ってたっていいんだよ。行為が有効であれば。
逆に言うと、人間の行動を規制することはできても、心の内面までは規制できないし、しちゃいけないと思う。まあ犯罪者の場合は別、というか要するに国レベルで思想に抵触する場合には、それが思想犯であれ、人間というのは内面に踏み込まざるを得なくなるわけだけど。


なんか、いろんな人の「偽善」に対するいらだちを読んでいると、「人間の心は変えてもいいし、変えられる」ということを信じている裏返しにも読めるし、それが実現しないからっていらだっているように思える。
それはねえ、青いですよ。


もともと、「人の心を変える」っていうのは本当はロマンなわけ。宗教家とか思想家とか、芸術家とか、みんなそれをやりたくてやってる。
でも、変えられない場合もある。たぶん、宗教とか思想っていうのは「人の心を変える」=啓蒙するということの限界も折り込み済みだと思う。


それと、変えちゃいけない、マズい場合もある。連合赤軍事件やオウム事件の原因は、人間の内面まで変えようとあまりに無邪気に思ってたことにある。
これらの事件って、やった人たちが偽善ではなく、少なくとも自分の心には正直に「善」の心でやったから大事件になっちゃったわけでしょう。
それをねえ、偽善、偽善といっている人は考えているのかと。


最近のそういう言説には、あまりにも「じゃあ何かをやったときにそれは有効なの? ただの自己満足なの?」という視点が抜けている。


私も、24時間テレビの基本ラインは、実はあまり好きじゃありません。
しかし、じゃあ今年は評判が良かったけど、かつての27時間テレビはどうだったのかと。
そう考えると、むしろ27時間テレビの方が、面白いつまらないは別にして、大義名分はまったくない。
まあ、27時間テレビはそれに自覚的なんだけどね。


ちょっと忘れちゃったけど、確か24時間テレビが始まった当初は、テレビが24時間やることが珍しくて、その24時間の間に募金をどれだけ集められるかというコンセプトがあった。
「24時間」というのは募金のタイムリミットだから、これ以上の大義名分はない。


でも、昔っから27時間テレビがどこか座りが悪いのは、始まった当初からまともな大義名分がなかったから。
で、今年の27時間テレビが成功したのは、もう27時間テレビが慣例化して、それが枠として当たり前になって、初めてそこで「じゃあ何をやるか」っていうところから始められたというのがとても大きい。


んだから、比較論で言えば24時間テレビの方が大儀はある。


まあ、24時間テレビ批判派に同意するとすれば、毎回の目玉の芸能人が走るマラソン、あれが実はまったく意味がない。
あれって「24時間」っていうタイムリミットを強調させるための企画でしょ。
「走る」理由が何にもないもん。まあいちおうはあるけどね。


だから、27時間テレビでマラソンのパロディ(っつっても加藤は実際に走ってたんだろうけど、コンセプトとしてね)をやったのは良かった。良かったというか、27時間テレビ24時間テレビにつっこみを入れられるとすれば、マラソンしかない。
あれこそ24時間テレビのマラソンが「感動のための感動」であることをバクロしていたわけだから。


mixiリンク戻した
mixiからのリンクですが、やっぱりちょっと違うなと思ってまた戻しました。
プロフィールからは来れるようにはしてありますけどね。
いろいろと模索してます。