笑いの金メダル

1時間しか録画しておかなかったら、スペシャルだった。
この番組、金メダルの争奪戦を放棄してから非常に見にくい感じになった。
ネタ披露とバラエティ的なコーナーが交互に出てきて、見ていてなんだか疲れるのだ。
しかし、視聴率のせいかどんどんリニューアルしていった過程で、きわめて今日的な構成になっているのも私の気のせいばかりではあるまい。


ヒロシが、視聴者から応募したという自虐ネタ(というよりも、VOWネタみたいなやつ)をVTRとともに読み上げるコーナーがある。たとえば「女の都」という名前の街があるとか。


で、最後にくりいむしちゅ〜の上田が、ネタに関して後フォローを入れる。「女の都」は「おんなのみやこ」ではなく「めのと」と読むのだとか。
それを、横から有田が「そんな説明を後から聞くとつまらなくなる」と批判し、それに合わせて他のみんなも上田を非難する。


当然、これは上田が「うんちく」ネタで売っていることをみんなでクサす、というギャグだが、説明を求めて見ている私まで非難されているようで、ちょっと不愉快な気分になる。


実際の「VOW」に細かい説明があったか忘れたが、確かに「VOW」は、そのネタの原因を追及するというよりも見た瞬間のインパクトを重視していた。
これは非常に80年代的で、現在でも継続しているスタンスである。


対するに、上田の志向する(というよりマネた)「うんちく」というのは、前から雑学知識として存在しているものではあるが、「ネタ」を細密化させるということがメジャー化しているという点で今日的なのである。
たとえば「トリヴィアの泉」でも、後で読み上げられる解説はそれ以前のうんちくをネタにした番組(たとえばクイズ番組など)がひと言で終わらせていたことを、非常に詳細に渡って説明する。
この「解説」は、よく聞いているとトリヴィアとして番組側が自信のないものは誤魔化されているし(たとえばあらいぐまの「ラスカル」の意味など)、詳細説明の衣をまとって実は取り上げたネタ元に対する後フォローになっていたりするところも興味深いが、また別の話。


話を戻すと、うんちくを語る上田は90年代以降の細密さ、それを「おまえ、めんどくさい!」という有田はそれ以前の80年代的な投げっぱなしを象徴しているのだ。
いやあ、うがちすぎた見方は楽しいですね(笑)。


もうひとつは、最近ときどきやっている「既存の芸人に、オリジナルキャラを演じさせてネタをさせる」というもので、今回は松村が元力士のピン芸人「桃乃花」とかいうのをやっていた。
それ以前は、ホリケンとか有田とかが出てきて、「ネタが笑えないピン芸人」のパロディであることは明白だったが、松村の場合はもっと複雑。
松村はネタが面白いから。


しかし、たぶん松村のものまねネタの構成というのは、「もしだれだれがこれこれをやったら」など、「ものまね四天王」系統の一世代前の感じで、「笑金」に出るにはインパクトが弱いと判断されていると思う。


ところが、松村がまだ痩せていた頃は、現在のコージー原口あきまさに近い、完コピに近い芸風だった(ライブなどで現在もやっているのかは知らない)。
たとえば、一人芝居をたけしですべて通すとか、そういうのをやっていた。
「ビデオ世代のものまね」と泉麻人に言われていたほど細密だった。
だけれども、松村を「完コピすぎて物足りない」と思っていた人も多かったに違いない。その後、むしろ一世代前の芸風に移行し、掛布の「ヒジョ〜にですね」などのワンフレーズを流行らせるに至るのだ。


もちろん、たぶん完コピしていた頃の松村には、現在のコージーや原口のように、「完コピしたまま番組進行する」という力はなかった。視聴者にそれを受け入れる体制もなかったと思うし。
そういう意味では、松村は新世代のものまね芸人と、「ものまね四天王」的な芸人との中間的存在であると思う。


まあ、そんな松村もパロディとしてしか出れないというのは、やっぱり今日的なのである。


番組は年を越せるらしいが、もうネタ番組としての面白みはないな。新しい人がぜんぜん出てこないし。出演者の妙にファミリー的なノリにもなじめない。