サブカル/オタク続き

コレの続き。
思いのほか、あっちゃこっちゃにリンクされてビビったりしました。
感想もいくつか読ませてもらいましたが、みんな何となく「サブカル」って言葉のニュアンスが嫌いな人が多いような気が……。


まあ、ウチのような日記を読んでくれる人の趣向でそういうのが多いのかもしれんです。


サブカルチャー」本来の意味と離れて「サブカル」という言葉が現在使われていて、私の場合は「60年代、70年代的感覚での社会変革意識を、否定するにしろ肯定するにしろ射程に入れているかどうか」を区別の基準にしている、ということに関しては基本的に変わりありません。
ま、私的基準ですので。


万博に関して。
愛・地球博がらみで過去の万博の特集も散見されますが、「大阪万博」とせまくくくらないで、「万博」一般でイメージされる未来像、まあ簡単に言うと「ドラえもん」の未来の国みたいな感じ。
本当にああいう時代が来ると70年代は思ってました。少なくとも、子供は思ってた。


1970年の大阪万博も、「1964年の東京オリンピックの夢をもう一度」みたいな感じだった、とも聞くのでどの程度の盛り上がりだったかは(知らないから)時代感覚としてわからないんですが、そんな未来感覚も1973年の第一次オイルショックなどの影響か同年発行の「ノストラダムスの大予言」以降、色あせはじめる。


ただそれは一般人的な感覚で、全共闘とかやってた人たちとかは最初からそんなに歓迎してなかったはず。
いちがいには言えないが「物質文明批判」みたいのが大きなテーマだったんじゃないかと思うし。
一方、「SF」ってジャンルは社会変革のイメージを強く持つジャンルだと思う。「オタク」ってミーイズムの極致だと思われがちだけど、その母胎となった「SF」に関してはそうではない。
しかし、それが50年代以降の政治運動と共闘してたかというと必ずしもそうとは言えない。ズレる部分と、たぶん合致する部分がある。
今から見ると、ズレの方が大きく見えるんだけど。


何が言いたいかというと、SFの社会変革と新左翼の社会変革って合致してない、そのズレが万博を評価するかしないかに出ているということ。


一般的な未来像に関しては、「ドラえもん」は、のび太の家の近辺に土管が置かれた空き地がいまだにあるように「未来」も万博風未来なんだけども、他作品としては「ノストラダムスの大予言」、「日本沈没」、「マッドマックス2」、「北斗の拳」、「サイバーパンクもの」というふうに、90年代初めくらいまで暗いものばかりになっていく。
こんなの、状況的に万博を懐かしむ雰囲気じゃないわな。
そういう枷が取っ払われている現状、ってのはあるでしょう。


ああ、あと「『サブカル』って、『こういうのを好きな自分が好き』ってことじゃないのか」という意見をすごくたくさん、いろんなところで見て、自分が書いたところと関係ないところでも見たんだけど。
私は、必ずしもそうは思わないので。
やっぱり、オタクの中にも「こういうこと(一般的に実にならないこと)をしてる自分」が好きな人っていると思いますよ。
まあ、若い頃は背伸びしてナンボじゃん。