しかしまだまだこんなもんじゃないよなあ

最近、若い衆にダーク話をすると必要以上に引かれている自分に気づいたよ。
考えてみれば、10年前も自分は悲惨(だと自分が考える境遇の人。無職だとか、仕事でひどい目にあってるとか)だと思える年長者に対し、似たような感想を抱いていたと思う。
(あ、私は無職じゃありませんが。いちおう書いとかないと誤解されるんで(笑)。)


でも、自分のことを言いますと、私の悲惨は今後まだまだこんなもんじゃないと思いますよ。
若い衆は、私を見て自分の未来が「こうなっちゃうかもしれない」とか思ってせいぜいおびえるがいいですよ(笑)。


悲惨への寛容、ていうのもトシをとるひとつのステップだと最近思っていて、
でもそればっかりは、同年代でも同じようには進まないんだよね。
青春時代の恋愛や進学や就職への悩みっていうのは、だいたいおんなじでしょ。
でも、中年以降は悩みも違ってくるから。


それこそ、ホリエモンみたいのはある意味、どっか感覚が二十代的だと思うんだよ。
あと、柳沢きみおもどっかおかしいよな(笑)。
芸能人とかもそう。ちょっとトシの取り方が違う。


あ、あと、オタクな若い衆で「彼女ができたときとか結婚するときとかに、オタク趣味を捨てろと言われたらどうするか」ということを考えて悩んでいる人がいると思いますが、
昔はそういうのって、ある程度その男(女はわからんけど)の甲斐性、ってことで済んでたこともあると思うんだよね。


逆に言えば、現在「オタク趣味」っていうのが単なる属性みたいにとらえられていることには違和感がある。
もともとが酔狂というか、「普通の生活なんかできないことは覚悟の上」という生き方だったと思う。
生活面で言えば、あきらかに「ムリ」をしてる状態だと思うんで。
心情的には違ってても。


オタクとして生き残ることも、一種の生存競争だったと思うんですよ。
別に人間に生まれながらにして「オタク権」がそなわっているわけじゃないからね。存在が認められることに関しては、ほとんど何の根拠もない。
で、じゃあ「オタク」っていうのは何か生き方における指針のようなものになるのか、っていうと、
一般論で言うとならない、というのが私の結論ですね。


だから、そこら辺考えた方がいいと思う。
たとえば、抽象的だけどロックな生き方がしたい、とかヒッピーみたいな生き方がしたい、とか貴族みたいな生き方がしたい、っていうのは生活の指針になるし、忙しかったり貧乏だったりしてもできると思うんですよ。
でも、「オタクな生き方」って、むずかしいでしょう。少なくとも、物量的な問題をはずせない、としちゃったらできないでしょう。経済力がないと。
昔は「オタク」というのは視点とコミになっていて、オタク的な視点というのはトシをとってからも保持できるんですよ。
でも、なんか最近はそういうのが当たり前になってきてて、みんなあまり問題にしてない気もする。


で、単に物量を保持したい、というだけならそれは単に生活の維持というかシュミの領域であって、別に生き方とか関係ないからね。
そっちに振り回されて、貴重な人生を棒にふらない方がいいと思います。
前から思ってたけど、人生のいろんなことの総量として「何が幸福か」というのが最終基準であって、別の部分に基準をもうけると「幸福じゃないのにそういう生活をしてる」ってことになっちゃうからね。
(「理想」とか「希望」っていうのは、目の前の「何が幸福か」を忘れさせてしまうめんどうくさいものなんだよねえ。)


そこら辺は、もう70年代に答えが出てると思うんだけどみんな忘れちゃったんだね。
「実感」というのはたやすく風化するけども、思想的な問題というか生き方については数式みたいにある程度結論が出るからさ。これが忘れ去られるのはキツい。
でも、同時に忘れ去られるもんなんだけどね。
でないと、連合赤軍事件が起こった後にオウム事件が起こったことが説明できないもん。