ナンシー関(夏色の)

http://d.hatena.ne.jp/Tabi/20050530#1117382430


確かに、ナンシー関が追求したのは「常識/非常識」という枠組みでした(と思う)。
ただ、彼女のバックボーンとしているものはいわゆる「世間」とは重なる場合もあり、ズレる場合もある何かだったと思う。
「倫理観」と書いてしまうと、何か他人も同じことを求める押しつけがましいことに感じてしまうけれども、むしろ「自分はどうするか」ということだった。そして「自分はこうじゃないと思う」と発言するというようなことで。


出典を忘れたが、一人暮らしのナンシー関は「買った食材を腐らせてしまう」のがものすごく「ちゃんとしてない」ことだと思っていた、という記述があった。「ちゃんとしてる/してない」というのは、オトナとしてどうか、というような意味。
そういう基準で生きてた。
でも、それは自分が思っているということで、「世間が思っているから」ということではない。「世間」とか「常識」ということを検討し、じゃあ自分はどうするか、ということを決める。そんな感じだったと思う。


だから「なあなあ」を嫌ったわけでね。彼女が辛辣に書く芸能人って、ぜんぶ「なあなあ」でいつの間にかテレビの「場」におさまっているような人だったから。


ただし、これは何度か書いているように、テレビも、テレビの受け手(というか、ナンシー関の読者になりうるような受け手)の意識も変わってきていて、秋元康的な方法論には言論で鉄槌を下すことはできても、一周回ったつんくなんかはやりにくかったと思います。
つんくには「言及したら負け」的なところがあるからね。「釣り」ってやつですね。


秋元康の仕事っていうのは、批判者を無視するんだよね。無視というかやんわり追い返すみたいな。
広義のつんくワークスは、「そんなのダサいじゃないか!」っていう言葉も受けれる体制が整っちゃってる。で、そんな一種の弾力性を備えた売り出しは、ナンシー関やその他の人たちがつくり上げた土壌があったからだという気もする。


話がズレてつんくハロプロ)の話になるけど、たとえば初期チェッカーズとか、つんく自身でもシャ乱Qとかは、もう「ダサい」って言われるの上等でね。でも、ハロプロになるとネタ/マジの境界線がなくなってくる。
たとえば「雨の西麻布」以降のとんねるずのパロディ性というのは、わかる人にしかわからない二重構造になってるんだけど、つんく仕事の場合はそんな線引きは最初っからない。
メロン記念日」は「メロン記念日」ですよと。それ自体に「読み」とかは必要ない。
でも、「わざとダサいことをやってるんです」っていうんでもない。「わざとダサいことをやる」ということは、逆に「オシャレなものを知っている」ということだけど、つんく的なオシャレってそういうのとはまたぜんぜん違うベクトルだった気がするし。
その辺のマジ/ネタの境界の曖昧さは、ツッコミ側としてはイライラすると思うね。


ナンシー関に話を戻すと、要するに「自分の立ち位置」というものをすごく意識していたからこそのオリジナリティってのがあった。後ねえ、矛盾するようだけど、一種の「常識主義」みたいのから出発しているんだけど、じゃあ彼女がどこに位置していたかっていうと完璧なる外部、だったような気もする。


たとえば、その他の女性ライターというのはどうしても女性の立場からの発言が入ってしまうし、それはまた当然なんだよ。でも、ナンシー関はそれをすっとばしてたから。
まあ商売上当然だけど、酒井順子とかは男性視点というのは(最近の連載エッセイを読むかぎり)ぜんぜん入ってないからね。
あくまでも「これくらいの年頃のこういうポジションにいる女性は何を考えているのだろう」というひとつの基準として男性週刊誌でエッセイを書いているわけで。中尊寺ゆつことかもそうだったけど。


かといってじゃあナンシー関が「男性的」かというと、いわゆる男性的なもの、マッチョなものにも嫌悪感を示していたしね(責任とってチョンマゲ切った国会議員とか)。でもプロレスは好きとかさ。そういうのが面白かった。


だから同じことを繰り返して書くけどナンシー関の方法論を解体して活かしていかないとダメだし、彼女の晩年というか最後の方の仕事の、実際のテレビとか視聴者の常識との「ズレ」を注意深く見ていくべきだと思う。


それと、ナンシー関の書いていることというのは、同世代の他のライターと比較するとわりと相違点が浮かび上がりやすいと思う。当たり前と言えば当たり前だけど、えーとね、説明すると長くなるのでここらでやめる(ずるい終わり方)。