テレビ番組のにぎやかし芸人論を、自分も考えてみた

http://d.hatena.ne.jp/toronei/20050722/C

TheManのつわもの迷走記のこちらだけを見ていて、ちょっと流れがわからなかったんですが、続く昨日の風はどんなのだっけ?の「にぎゃかし芸人論」を読んで、思ったことを書きます。
まさに私がこのブログにおいて、「テレビお笑い」っていうカテゴリをつくったところに通じる話なんで。


その前に、私は「松紳」を見てません。すいません……何度も書いてますが、ウチは日本テレビがよく映らないんですよ。だから「エンタ」も観てないし、昨日の「ルパン三世」も観られなかった。


で、それを前提に思うんだけど、紳助というのはテレビを観ているぶんには、漫才というか舞台芸と決別した人のように思うんですよね。いや、知らないところではやってるかもわからないけど(というか、確か松本のエッセイ集に紳助の舞台を見に行くくだりがあるけど)、逆に言ったら自分のメインをテレビに置こうという決心が、紳竜解散のときとかにあったと思うんですよ。
松本も、ちょっと違うけど別にお笑いブームでも何でもない時代に扉をこじあけるようにしてテレビ界に入ってきた人という印象が私にはあって、これはさんまもそうだけど、テレビに対する覚悟が違うと思うんですよね。


そう言う人は、たぶんテレビの「現場」でだれがどんな機能をしているのかというのを、わかっていると思います。そこから出てきた発言ではないかと。


別のところで伊集院光が言ってたのは、あの人峰竜太をすごい評価してるんですよね。峰竜太の評価なんて、普通テレビを観ているだけの人間(私みたいな)はぜったいしないですよ。でも、伊集院によると峰竜太は、バラエティで雛壇にタレントが何人か座っているような状況で、ベテランからただかわいいだけでそこにいる女の子まで、番組の性質をふまえたうえできっちりフリをすると。
そして、多少トンチンカンな答えが返ってきてもそれをきっちり受ける、っていうんですね。


他にも伊集院は、三遊亭夢之助をすごく評価してて、彼の話によると舞台で「何分でやってください」って不当に短い時間(10分とか?)を与えられても、「鼻水が止まらない」っていう話題だけで持たせられると。それがすごいという話でした。
そういうのも、現場に立ち会わないとちょっとわからない種類のすごさですよね。


で、一方で「リアクション芸」だってそういう言葉が認知され始めたのって最近で、それまでは「芸」としてまったく視聴者には認められていなかった(たぶん現場では認められてたと思うけど)。
「元気が出るTV」のDVDを観ていて思い出したんだけど、稲川淳二はともかく、島崎俊郎のリアクション芸って今では忘れ去られてるんですよね。
それで島崎というと一足飛びに「アダモちゃん」や「ヒップアップ」が思い出されるってことになってて。


これは、島崎という「タレント」の性質によるのかもしれないし、彼が出ていた頃は「元気」の番組そのものの企画力を視聴者が認知していた頃だったというのも言えるかもしれないんですが。


テレビのお笑いというのは、少なくとも私が知っている1970年代半ば以降は、「いかに現場でなされていることが視聴者に認知されていくか」の過程だと思うんですよ。
これがまあ、たぶん舞台だと違うと思うんですよね。まず出し物中心の評価ということになって。


で、たとえばそれはさんまがトークの中で相手にテレビ的に面白いトークの仕方をレクチャーして、なおかつそのことで視聴者も教育してしまうような部分だったり、とんねるず秋元康の「内輪ネタを半ば強制的に面白いと思わせる」ことであったりしたわけですよね。


単純なところでは、ゲームで最後の問題で大差が付いた場合、「ジャンピングクイズ」などで一気に逆転できるようなシステムを視聴者側が多少無理があっても納得してしまうとかね。


そういう流れの中でここ数年、前代未聞のテレビにおけるネタ披露ブームが起こっていて、それは今までのバラエティのように「現場でなされていることを視聴者に開示することで変化を続ける、笑わせる」という流れとは明らかに違ってきてる。これは、私はM-1がものすごいタイトなガチンコ勝負(あるいは「ガチンコ勝負という設定」になっている)ということとは無縁ではないと思います。
(ここでM-1の名前を出すのは、現状のネタブームの中心にはM-1がある、と私が思っているからなんですが。)


要するに、「バラエティの現場」という「空気」的なものの開示とは別に、ガチ勝負の面白味を持ち込んでいるわけで。
でまあ、さすがに現状で若手芸人が、いつでもどこでもM-1的な考え方を持っているとは思わないけど、今あえて松紳のコメントが取り沙汰されることの意味はと言ったら、視聴者の側の意識にM-1的なものがある、あるいは逆に、「お笑い」っていうのはそういうガチ的な部分だけじゃないんだ、って言いたい人が出てきているということだと思います。


それと、もうひとつは完全なスター以外は評価しない人というのがいて、コレは戦国武将でも織田信長とか武田信玄とかのトップしか評価しない見方と同じで、それはそれで仕方がないという妙なフォローもしたいんですよね。まあ確かに、そういう歴史観もないではない。
まあ出川や山崎を、お笑い芸人以外のタレントが批判できるかっていうとそれはできないでしょうが、たとえば舞台芸を追求している人なんかには出川や山崎を認めない人もいるだろうし、そういう場合はテレビバラエティ自体が否定されているのだろうから、それはそれで仕方がないです。


問題があるとするなら、テレビバラエティ番組を認めながら出川や山崎を認めないということはできないだろうということなんですが……。
でも私も中山ヒデを認めろと言われたら(笑)、「客観的に観て存在価値はあるだろうけど、中山ヒデが出るからテレビを観ようとは思わない」などと言うしかない部分もあります。


要するに、根本的にテレビって、いろんなところの専門家が集まってきてそれまでにないものをつくってきたから、それまでにない役割が出来ちゃうってことだと思うんですよ。
たとえばつくり手だけでも映画スタッフや、芝居の脚本家出身の人たちがいるだろうし、出る側になったらそりゃもう何でもありなわけで。
で、そういう「それまでにない役割」っていうのは何なのか、っていうことを追求し続けてきたのがナンシー関だと思うんですけどね。


そうそう、それで、「M-1的価値観」っていうのは、観る側が「お笑い」を、今までにないくらいタイトに観るということで、それは「お笑い評」という行為につながっていきます。
で、こういうタイトな視点への流れって、プロレス→総合格闘技への流れに近いと思うんですよね。
多少お笑いの方が後から来てるけど、ほぼ同時代で起こっている現象です。


今、私は総合格闘技がどうなってるのかはわからないんだけど、もしかしたらお笑い方面では、M-1みたいに時間制限や点数制みたいなものまで視聴者が細かく観る、というところを経て、それまでとは明らかに色が違うタイプのタレント……たとえば私はぐっさんとかガレッジセールのゴリとかは、それ以前の要素を持った芸人で、彼らのブレイク後に来たお笑いブームとは違うタイプの人たちだと思う……や、あるいは落語やコメディ映画などのいろんな部分が総合的にとらえられて、もう一回視聴者側に戻されるという事態になるんじゃないかと思う。


そうなったら、たとえばテレビにおいては「ネタ披露でしか評価せず、リアクション芸人を不当に評価する」とか「ゲーム的な番組を不当に評価する」ということもなくなってくるのではないかと思います。


まあ、そういう私も「ごっつええ感じ」のチームファイトよりもコントやれ! っていつも言ってましたけどね(笑)。
なんか、視聴者側の観点が変わり始めてる気はしますね。その胎動があるというか。