内P終了

惜しまれる声と、「それほどのものでもないんじゃないか」というのと、巡回しているところでは2方面ありますね。
私自身は、実はあまり見たことがなかったんだけども、惜しまれる気持ちもわかりますね。
まず内村個人に対する評価と、次にテレビの広義のバラエティに対する評価で意見が違ってくると思います。


私の個人的見解としては、テレビというのはバラエティが中心のメディアだと思っています。
はっきり言って、ニュースもバラエティですよ。


ここで昔のニュースの話をします。私のようなおっさんのブログなんて、昔と今の比較くらいしか書くことがありませんから。
ほんの20年くらい前は、たとえば日本テレビは「読売新聞ニュース」とかやってたわけです。
「読売新聞ニュース」ってアレですよ、記憶が確かなら、新聞社の社員が5分とか10分枠でニュースを読み上げるわけね。
「なんでこんなに素人臭いんだろう」って子供心に思っていたら、あれってアナウンサーじゃなかったんだよね。


詳しいことはわからないけど、たぶん80年代半ばくらいまで、テレビそのものに報道する機動力みたいなものがほとんどなかったんだと思います。今もどうかは知らないけど、少なくとも90年代頭くらいまで、芸能スクープなんて完全にスポーツ新聞や週刊誌の後追いだったし(「やじうま新聞」が始まったときも、新聞の方が報道においてはテレビより上だった、という部分があったのだと思う)。


和田勉が独立直後にずいぶんテレビに出ていた頃、あの人は「テレビにニュースはいらない」って言っていた。ドラマをつくっていたから当然ドラマびいきなわけだけど、それだけじゃなくて、たぶんテレビのニュースに必然的にフィクション性が入り込んでしまうことをわかっていたんだと思う。
それとはぜんぜん別の場面で、影山民夫は「テレビはニュースだけでいいんだ」って言っていた。でもこれは、彼が「カエルの運動会」だか「トレーニングジム」だかが外国にあるとかウソニュースをバラエティででっち上げていたからで、不穏当な言い方をすれば「ニュースはフィクションも入っているんだ」ということなんだよねこの発言はやっぱり。


というわけで、現在、午後6時代のニュースは後半、万引きGメンだのホームレス夫婦だのの、報道なのかバラエティなのかわからないものが席巻している。
現場レベルではいろいろと違うかもしれないが、ものすごく大雑把に言って、テレビとは本質的にそういうものだと思う。


テレビという「場」によって、本質が変化させられてしまう。
だからこその「元気が出るTV」の「意識的なフィクション性」が輝いていたのだし、猿岩石の旅行記だとか一ヶ月1万円生活とか、広義のバラエティはどうしても微妙なドキュメンタリーの方向にシフトして現在に至る。
「バラエティショー」の「ショー」的な部分は、実はあまり問われなかったりするわけです。
逆にショーとして完成度の高い番組って、見たことないし。


もうひとつ、テレビの特質というのは、たぶん「笑い」を特化して目的化することもあまりないのではないかということ。
いちばんありがちなのが、お笑いのコンテストを「感動」の方向に持ってっていったりするアレ。
いや、結果的に感動することはあると思うけど、むしろ「笑い」とは違う方向に向きやすい傾向にあると思う。
別の言い方をすると、つくり込む方向よりも外に向かって解体していく方向に向かうというか。
それは、今までのお笑い系の人気番組すべてに言えることなんじゃないかと思うけど。
(だから、私はつくり込んでる、あるいはつくり込みたいっていう意志が感じられる「Goro's Bar」をすごく評価してるんですけどね。)


話は急に戻るが、そんな中の内Pだから、愛されていたのだと思う。
私は正直、現状の内村がそんなに面白いかはわからないんだけど、でも愛されていたということは他のメンバーともども愛されていたということでしょう。内輪の笑いと言っても、テレビの「内輪」っていうのはたぶん何千万人だから。そういう空気を形成するということは、簡単ではないだろうと私は思います。
同じことは「めちゃイケ」メンバーもそうだと思うんだけどね。


まあ、何が言いたいかというと、「テレビのお笑い」というのは「漠然としたバラエティ」の視点を抜きにはなかなか語れないんじゃないかということ。
そもそも、テレビで輝く芸っていまだに評価されないんですよ。それは井戸田の結婚の件や、前に書いたかどうか忘れたけど週刊誌に載っていたドン小西のレイザーラモンHGをやんわりと小馬鹿にした感じ、
いや、さかのぼれば小林信彦がドリフを評価してなかったというところにまで行くんですよ。


あるいは芸能レポーターだとか、グルメレポーターだとか、あるいは「バラドル」と言われた森口博子井森美幸が、どんだけ「芸人」として評価されてきたかというとされてないわけです。
ナンシー関は、こういう「テレビという場」の雰囲気だけで、芸人や役者が「バラエティの人」となっていくことに対するとまどいと不安を書き続けてきた。
で、私はテレビに対する見方っていちばん影響を受けたのはナンシー関なのは間違いないけど、いまだに「もし今、ナンシー関がいれば……」って言うことは、気持ちはわかるけど正しくはないと思う。
ナンシー関談義になると話がそれるので詳しくは触れないが、彼女が亡くなる直前までの彼女のテキストを読んでいた人々は、それがほんの少し時代とズレはじめていたことに気づいていたはずだから。


でもまあとにかく、彼女の書いていることのひとつは「あるべきところにあるべき人がいるべき」ということだったと思うけど、どんどん違う方向に進んでいったのが、テレビという魔物的なものだと思う。
そして、その中から、お笑い芸人で言えばドリフやたけし軍団やダチョウやダンディ坂野が出てきたということでもあるし(ときには、前述の「猿岩石」のように時代に翻弄される人も産んでしまうんだけど)。


私も、ときどきそういうテレビの胡散臭さがイヤになることもあるけど、でも全肯定はしないけど全否定もする気にはなれないんですよね。よくも悪くも、おそらくテレビに出ない人までをも巻き込んで「テレビ」っていうのは存在していると思うからね。
まあ、それをふまえての好き嫌いはさすがに私もあるけど。
たとえば「笑う犬」シリーズと、「はねるのトびら」はあまり好きじゃないとかね。